2007年、起業で躓いた私は取引先の会社に拾われる形でそこで働いていたが、同族企業の生温い意識の社員たちと溶け込めず、社長本人との考え方の違いともずれが生じ、異分子のように浮いた存在になっていた。特に社長の娘との軋轢は次第に大きくなり関係は悪化の一途をたどっていた。

ある日、何気なく机に向かい作業をしていると、やはりいつものように私の背中へ向けてわざと聞こえるような声音で中傷の言葉が発せられている。いわれの無い社長の娘の暴言に私は一瞬で頭に血が上り、あまりにも感情的な衝撃を受けたのか三半規管がおかしくなってクラクラとしてしまったほどだった。それでも事務所内には数人の従業員がいるし、腸が煮えくり返る思いを抑えながら、もう限界だ何とかするしかないと断腸の極みで悔しさを押し殺し、正気を保つことに務めた。

その時から顔が紅潮して熱くなったような感覚がずっと続き、カフェインを大量に摂取したときのように興奮冷めやらぬ状況で他のことが手に付かなくなってしまった。怒髪天をつくとはまさにこのことではなかろうか。完全になめられている、何も言い返さないし反応を示さない私は都合のいい不満のはけ口にされている。一発、脳天をかち割るくらいの目に物言わせて意思表示をしなければますます図に乗って辱めを与えてくるだろう。こう見えても言うときは言うのだ、相手が女だからって男が本気になったら怖いということを見せてやらなければ。

この会社に実質居候のような立場で社長の娘に対して渇を入れることは甚だ恩知らずで高慢な態度として映るかもしれない。それでも事情が事情だけにこれは社内イジメであるという正当な理由があるわけだから、勇気を持って事実を白日の下にさらせば誰もが納得するであろう、それが実の娘の愚行であっても。その日、私は冷静になることはできずにせめて一対一での話し合いを持とうと帰宅せずにビルの入り口で彼女が出てくるのを待った。同僚と二人で出てきた彼女に話しがあると誘いだし、単刀直入に私への態度を改めるように言った。先ほどの怒り狂った感情ではないにしろ、威圧感を込めてあくまでこちらは気分悪く仕事をしたくない、それだけのことだと表面上は大人の提案として投げかけた。相手に怒っているのだという意思を示せば多少は大人しくなるだろうと踏んでいた。しかし相手は最初は驚きながらも事情を飲み込んだ上で悪びれる様子も無く、自分は何も悪いことをしていないと強気の態度で言い返してきた。

これは全く常識の通用しない相手だ、内心肩透かしにあったように驚くとともに、中途半端な態度では到底分からせることが出来ないと思い、何年ぶりかにキレてしまった。絶対に負けてはいけない、ここで引き下がればこの会社での私の立場はない、更に険悪な状況と化して仕事を続けることができなくなる。しかし相手も一枚上手だった、私が声を荒げて怒鳴り散らし訴えいてるのに、臆することなく同じように応戦してくるのだ。言い合いは平行線を辿り、収集がつかなくなってしまったがこのまま帰せば何も変わらない。しかし相手も譲らず、時間だけが過ぎていった。全く埒が明かない。通りすがりの数人に見られるようになったので仕方なく相手に、今度私に対して悪態をついたらただじゃ置かないとの警告を捨て台詞にして、目的を完全遂行できないままその場を立ち去った。

ついに言ってしまった。胃がとてつもなく締め付けられるようにズキズキと痛くなっていた。とうとう揉め事を起こしてしまった、私に対して更なる憎悪の気持ちを抱くかもしれないが、相手も私よりも年上の大人の女性。自らの行動を省みてこれを機に改心してくれれば良いと一縷の期待を込めて明日を迎えるしかなかった。しかしそんな期待とは裏腹に翌日出社したらすぐに社長に呼び出しをうけた。思ったよりもすぐに社長の耳に入っていたのだ。娘は自分のしていることを棚に上げてか、自分の立場によほど自信があるのか速やかに私のことを報告していたのだ。おそらく私のことについて相当ひどい仕打ちを受けたと吹き込んでいるに違い無い。事の成り行きからして私の思い描いていた娘張本人との円満なる和解の道は無くなったと直感し、甘い考えであったことを悔いた。

社長は事情を全て聞いていたであろうが私の話を黙って聞いてくれ、色々と精神面での心配もしてくれたが下された処分は一週間の謹慎処分であった。その後の処遇は再度の話し合いで決めるということだった。一方的な私の悪事と判断されればこの時点で即時解雇ということになったであろうが社長も自分の娘とはいえ思い当たる節があったのだろう。かなり困惑の表情を浮かべてばつが悪そうに指で机を叩きながら考え込んでいるようだった。社長の善意ある計らいに僅かな望みを託し一週間自宅で待機をした。

一週間後、呼び出されたのは事務所ではなく近くの喫茶店だった。事務所は会議室との隔たりの壁が喫煙室同様、上が空いているので話している内容が丸聞こえになっしまう。当事者である娘が事務所にいるのでそれは不適切という理由だったのだろうが、社員に気を遣って社長が自社の会議室を使えないというのは何とも本末転倒な気もしたが、当時の部長と三人で話合いが行われた。私はまず、社長に対して謝罪の気持ちを手紙にしたためたものを差し出した。確かに私の行動は適切ではなかった、順序も違っていた。それにもまして手を差し伸べてくれた社長の顔に対して泥を塗るような結果になってしまい、そのことについては大変申し訳なく思っていた。その場で手紙が読まれることはなく話が進められ、私がとった行動は組織としては断じて許されるものではないと前置きをされ、今後は出社して仕事をすることも認められないと告げられた。私は、原因は娘にあり自分を防衛するため止むに止まれず起こした蜂起であることの正当性を主張したが、聞き入れられることはなかった。社長の性格を熟知していたので、ここで論破しねじ伏せるようなことも、悪あがきをしても何の譲歩もされないことは分かっていた。

しかし話には続きがあって、自宅で出来るような仕事を発注するので外注として依頼した仕事をこなしなさいというものであった。せめてもの情けであるといっていたが、皮肉にも社長からの私に対しての親心という計らいであったと思う。裏を返せば発端になった娘の親として、従業員の経営者として一種の責任を感じてもいたのであろう。無条件に絶縁を言い渡される可能性もあったにしろ、社長がいうように情けをかけてもらってでも最悪の状況よりはましだと思い、渋々受け入れざるを得なかった。しかしその外注の内容はホームページを製作することが主であったが、報酬としては製作物に対しての成果方式で、当然仕事が無くなればあえて報酬を支払うようなことを会社側からすることはないとも言われた。つまり安定性が無いという条件だった。金額にしても1ヵ月程度の仕事量で、出社して得ていた報酬の3分の2である15万円と言われた。これでは最低限食いつなぐことはできるが、自由に生活できないし再起を謀る資金力を補うことにも程遠い。頭の中では、新たな稼ぎ口を見つける努力をしなければならない険しい道が待ち受けていることに滅入ってしまった。

数々の失敗体験や人間関係の縁が続かない中で、世の中において自分で人生の活路を見出す自信がなくなっていた。この一件は情けないとしかいいようが無い。挫折してもなお、拾ってくれた先では村八分にあい、ついには揉め事を起こして追い出される。自分から口にすることはおろか、過去の出来事として人に知られることさえも隠したい影の部分である。自分は人間的な欠陥があるのではないだろうか、気付かずに人から敬遠される何か怪しい負のオーラを醸し出しているのではないか。何をやってもうまくいく気がしなかった。家に帰り、途方にくれた。そしてトイレで考え込んだ。起業からもう3年目に突入している、年齢的にももうすぐ30歳だ。しっかりと地に足をつけて生きていかないとならない、そろそろ引き際かもしれない。これからどうなるか分からない、結果的に資産として残ったものは何もないが体験として得たものは少なからず今後の人生に役立つだろう。

しかし実質はあまりにも無駄な時間と労力、キャリアを積み上げる大事な時期を棒に振ってしまった。頭を抱えてはため息しか出てこなかった。こうして私はいよいよ突きつけられた現実を直視するしかない状況におかれ、人生において夢を優先することが困難になってしまった。もはや事業を止めるか否かではなく、いつ止めるかの決断をすることに迫られていた。

チケットショップの会社に出社しなくなって、外注された仕事も友人のSEに丸投げをしていたので、やることもなく時間だけが流れていった。家でギターを弾いて時間を潰したり何かアルバイトでも始めようか、若いうちに経験しておきたかった水商売の世界を覗いてみようかなど悩んで考えていたが、幸いにも本業の外貨両替事業の方で手がけたネット広告がじわりじわりと効果が現れてきて、少ないながらコンスタントに注文が入るようになっていた。それでも経費をペイするくらいの売り上げしかなく、赤字をまかなえ数万円の小遣い程度の利益が出るようになっただけの変化だった。

当然その業務に手が取られることもないので何かをしなければならないのだが、予算もないので手をこまねいて見守ることしかできないでいた。しかしそんな日常とかけ離れた世界のどこかでは、とてつもない強大なパワーがおどろおどろしく蠢いていた。2008年初頭、それは私の事業にとっての大きな転機となる大事件の影が一歩ずつ忍び寄っていたのだった。