私が起業を決断できたのは一人の精神的な恩師の存在がある。千葉で建設業を経営する社長なのだが、ひまわり証券の営業マン時代に飛び込んだビルの最上階に入居する会社の社長で、かつそのビルのオーナーであり、地元のライオンズクラブの幹部で、高級外車を乗り回し、ゴルフへは週3で通うような典型的な中小企業経営者で成功した人物であった。

本人は全く覚えていないとのことだが、営業マンで初対面の私を無下にするのではなく明るい口調で会話をしてくれて気さくに接してくれたのを今でもはっきりと覚えている。営業の話をする雰囲気ではなく、最後までこちらの営業に関して取引顧客に実ることは無かったのだが、車に同乗させてもらい経営者仲間に遊びに行く際に連れて行ってもらったりと懇意にしていただいた。会社を辞めてからは接点も無く数年間のご無沙汰であったが、起業を意識し始めてから残っていた電話番号を探り当て意見を聞くために突撃で会いたいと言った申し出も快く快諾していただき、千葉まで会いに行った。

話をすると、まさかではあるが興味を抱いてくれて資金を提供することも考えてみると言われた。私はこれで俄然現実味を帯びたと思い、血眼になって事業計画書を作成した。現在も残っているがその事業内容とは、香港に行って外貨をその都度輸入してくるというもので、なぜか一年後には月間の取扱額が1億円に達しているという無謀を通り越して大風呂敷な内容であった。それでも何とかその事業計画書を携え再度千葉へ出向き、書類を見せながら、「たった3000万円だけでいいんです。お願いします!」と指を3本立てて頭を下げていた。しかし興味は持っているが自分一人だけで3000万円という資金を出すには高額すぎるということをのらりくらりとした口調で言われ、当然彼には前向きな出資の意思があると思っていた私は、到底出資してもらえるという態度ではないことに気付き途方にくれてしまった。千葉のとある喫茶店でのことだったがその時のコーヒーの味はいままでの人生で一番まずいと感じた。

よく考えたらそれもそうだ。彼の年の半分ほどの、2年ちょっと社会人を経験した会社経営の経験も全くない、親類でもなければ気心知れた仲間でもない、いくらビジネスに興味のある社長さんとはいえども3000万という大金をおいそれとパッと出の若造に出すわけが無い。
しかし当時の私には何よりの頼みの綱であったのだ。当然彼以外に頼るべき人間などいないのに、それが白紙になってしまった。何かが音を立てて崩れていくような気がした。喫茶店を後にしてから千葉中央駅のホームで自分の置かれた状況を分析してみたが、絶体絶命。どう考えても万事休す、打つ手無しである。追い込まれた苦境の中、茫然自失で宙を仰いだが蛍光灯にたかる虫を見つめて頭が真っ白になった。実は社長と話すその数分前に当時付き合っていた彼女からメールで別れたいとの意思を知らされていた。面談のまさに直前であり憂いている暇もなかったが面談後に我に返ると、恐ろしいほどの孤独感が津波のように押し寄せてきた。一緒に遊ぶ金もあるはずもなく、相手にしてあげる時間も自らの都合を優先させ何ら楽しませることも出来なかった自分から心が離れていくのは当然だった。彼女から自分への気持ちが薄れていたことは気付いていたが、それでも好きだった。その存在だけでもこの過酷で孤独な闘いのせめてもの救いであり支えであった。

それなのに、よりによってこの最悪のタイミングで自分にとっては最重要2大人物からの告別、いや全てを失ったと思った。今まで起業のために全財産を投げ打ち、愛車であるオートバイを手放し、屈辱に耐えながらも元証券マンのプライドを押し殺しながらアルバイトという身で、人生でいう黄金時代であろう20代半ばという青春時代を費やした。全身全霊を注いで実現に向けていた。私にとっては人生を賭けた一大プロジェクトだった。出資が叶わないならもうダメだ、これだけ苦労して全てを捨てて、成功したら苦学生している彼女に目一杯贅沢をさせて愛を送ろう、本気でそう考えていた。

なのに、終わってる。俺はいままで何をして来たんだ?一体ここで何をしているんだ?
失望と徒労感からとても立っていられず、滑り込んできた電車の座席に腰を降ろすと息をするのが苦しくなってきた。シャツの襟を全開にしても呼吸が困難になっていき周りの人目も憚らず大きな深呼吸をずっと繰り返していた。極度の精神ストレスで過呼吸になったのだ、やはり体もおかしくなっていた。悪夢であってほしい、こんなバカなことをする以前の自分に、時間よどうか戻ってくれ。

一年間。全てを巻き込んた大計画は無謀な結末として頓挫した。それからというもの何かドス黒く重いものに取り憑かれたような絶望の日々を過ごした。逃げたい、楽になりたい、もうやめにしたい。息をついて出るのはため息ばかりで生きているのが苦しかった。本当に人生で最も辛い時期であったと思う。これから何をすればいいのか。まさかこの年で一から就職活動か?志半ばにしてそれはあまりにも惨め過ぎるし、厳しい競争社会ではあまりに無用なハンデがつきすぎた。このまま世間に戻ったって自分の居場所はない。さらには、起業することさえできなかったというこのトラウマは自らの今後の人生に永く負け犬の烙印を焼き付けてしまいかねない。進む道が無くなったとはいえ退くも地獄であった。

しかし、多くを失ったままここでやめるわけにはいかない。そんな危機感なのか悪あがきなのかわらないが、考えあぐねた結果私はいつしかまた電話の受話器を手にしていた。最悪の状況、それでも人間は前に進まねばならない。藁をも掴む思いでかけたその先は、既に一部で外貨両替業務を始めていたチケット業界であり、情報収集するために意見を聞くためと称し複数の社長と会う約束をとった。千葉での出資拒否の件はかなりダメージが大きかったがそれでも何か繋がるものはないかと諦めずに行動を起こすしかなかった。

這い上がるきっかけは突き落とされなければ巡り合うことははい。そんなきっかけを与えてくれ、最初のころに嘘か誠か出資を仄めかして事業を実現できそうだと私に錯覚させてくれた千葉の社長に対しては全ての始まりを提供してくれたのだと今は思える。

実はチケット業界で外貨両替を行っている会社の経営者には当然全く面識がなかったが、とある人物に紹介してもらうまで、粘り強く人間関係を続けた結果でもあった。そういったいきさつもあり電話交渉後、まずは業界の組合の会長もしているという大物らしい社長が面会してくれた。色々話すことはあり、ましてや相手は業界の大物。実際に両替業務を営んでいることからもじっくりと話しをすることができた。彼のネットワークは絶大に違いない、ともにビジネスをすることができる仲になれば必ず大きな財産になるはずだ。そう思って、帰りの電車内でほくそ笑んでいた。しかし、どこでどう協業するかという折り合いがつかず、今回は見送るとの返事が後からきた。その知らせを聞いたときは正直焦り頭を抱えたが、もう自分に失うものは何も無い。また一からやり直しだ。

次にはかねてから目星をつけていた規模も大きく直営やFCで店舗も多く展開しているチケットショップの社長とも面会をした。その話合いでは自分の希望を全て包み隠さず話しをした。すると「外貨両替はうちが元祖なんだよ。うちで仕入れすればいいよ、特別会員になれば手数料もいらないから。」私はわが耳を疑った。その仕入れ値があり得ない安さだったからだ。そんな破格の条件でよいのか、交渉ごとは間違いがあってはならない。慎重に確認の確認をしたうえで・・・今までの経験で良いことには疑い深くなっている私は、まさかの展開が起きていることに気付くのにやや時間がかかった。なぜなら、今までの構想では香港で外貨を入手しようと考えていたが、この会社なら国内でしかも手数料無しで仕入れができるのだ。やった、からくりはよく分からないけどとりあえずこのシステムなら事業を始められる!企業の最高責任者である社長がいってるのだから間違いない。先ほどから笑顔が多く、少なくとも私のことを気に入ってくれているようだ。この会社で外貨を手数料無しで購入して、わずかに手数料を上乗せして販売すれば良いのだ。

一縷の望みが射した。今までこの巡り会わせのために苦労をしてきたのだろうか、この縁が自分を救ってくれるかもしれない。人は希望があるのと無いのとでは生きる意味があるのと無いのと同じくらい大きな差がある。どんなに苦しく、形勢に窮していても一つの希望さえあればそれを拠り所とすることができる、諦める理由を遠ざけてささやかな安心を与えてくれる。そして何より私が体験したとおり細くて切れやすくとも、阿鼻叫喚の無間地獄から引き上げてくれる蜘蛛の糸に似た生命力の源、そんな希望であった。

この希望の約束を元に私はついに具体的な行動に移っていくことになる。
実際の仕入れ取引を開始するまでは半信半疑で不安もあったが、顧客を集客して取引をするには法人化が必須であったので、当初の予定通り会社を作る段階に入ることにした。余計な金は払えない。本屋で買った会社設立指南書を頼りに見よう見真似で書類を作成していった。