2004年夏ごろ、証券会社での外国為替の仕事内容は一通り覚え日々の手数料振りの仕事も辛くはありながらも続けていたが、一日中オフィスにこもり、相場とにらめっこという現状に悶々としていた。今の仕事はノルマはあるが歩合が出るわけでもなく給料も安かった。自分はまだ若い、将来をよく考えてみればここで為替の知識だけを修得してこのままこの会社を続けていても、気がつけば特段得るものは無くただの低位安定のサラリーマンで終わるだろう。

かたや卒業旅行で感じた自分の国際力の無さと世界への憧れを忘れることは無かった。時は2004年、ちょうど堀江貴文ことホリエモンが若干31歳にしてプロ球団を買収しようと世間を騒がせていたころだった。正直とても感化され驚いた。あの若さであれだけ大きなリスクを取り強大な権力に立ち向かい挑戦している姿は素晴らしく尊敬できる人物であると映った。それに比べて自分の器は小さすぎる、同じビジネスマンとしてもし彼と同年代になったときにはどんな立場にいるだろうか。今のままではとてもじゃないが彼の足元にも及ばないに違いない。漠然とではあるが将来成功したいという野心はずっと胸に秘めていた私は全く次元の違う存在の人物に劣等感を感じていた。

いまのマンネリした現状では成功する資質を培うことはできない。それでも若さには限りがありその貴重な時間を刻一刻と無駄にしているのではないだろうか。毎日々、一喜一憂の仕事、往復の通勤、いつものメンバー、同じみの顧客、上司の罵声、追われるノルマ・・・こんなところで終わる人間じゃない。リスクを負っても破天荒でもいい、もっと刺激のある人生を送りたい。そして男なら一度の人生、成功を掴みとりたい。そのためにはこの現状を打破して未だ見ぬ何かを求め世界へ飛び出さねば。沸々と湧き起こる自分の大いなる可能性を邪魔する檻に欲求不満を募らせていった。

違う側面のライフスタイルには通勤時の読み物も英語のハウツー本を暗記するほど熟読し、テレビをつければNHKの深夜の英語教育番組のテキストを買っては再放送も含めて熱心に視聴していた。仕事の夜勤時ですらテレビをつけて勉強していた。英語の学習は勉強とは感じず楽しいものだった。国際人の絶対条件である英語力が少しずつ身についていくにつれて外国人交流サイトでメールのやり取りなどをし、実際に日本在住の留学生に会ったりした。彼女は韓国人だったが私よりも若くして単身で異国の地である日本に語学を修得しにきており、苦学生ながら懸命に生活している姿に海外志向を抱いている私が触発されないはずがなかった。また、親しい先輩から海外留学の素晴らしい体験の話を聞かされ、本気で海外へ出ることを決意し始めるようになっていった。

会社を辞めよう。はっきりいって今まで大した成果も上げず、給料ドロボーともいえなくもない身で何の恩返しも出来ずにたった2年半で職を辞するのは名誉なことではない。しかし、私の一度きりの人生、時間は止まってはくれない。30代、40代のいい大人になった時分に立ち止まって振り返ってみたとき、やりたいことに挑戦せずに不本意な人生を後悔するという取り返しのつかない結末だけはなんとしても避けたいと思っていた。

海外へ出て私を待ち受ける何もかもに立ち向かっていき、人間力とサバイバル力を鍛えて世界で活躍できる男になって還ってくる。いや、先の見えない日本経済に見切りをつけ、願わくばそのまま成長著しい海外でビックウェーブを掴み取り、幸せな余生を送ることも大いにあり得る。日本にいて巡ってくるかもしれない幸運や機会を捨ててでも、海外での可能性に賭けてみたい。もはや膨張する一方の熱い思いを押さえ込むことはできなくなっていた。決意が変わることが無いよう周囲にもその胸の内を明かして吹聴するようにした。そしてついには留学ビザを取得するために健康診断を受けにいくなど実質的な手続きを開始していった。あとは会社を辞めるきっかけだけだ。タイミングを見計らいその機会をうかがっていた。

              先輩上司の乱

かなり早い段階から私のいた部署は人間関係がかなりギクシャクしていた。前述したように最高責任者である次長の絶対的組織であり恐怖政治が敷かれていたからだ。役職者は尊厳を踏みにじるような罵詈雑言を浴びせられて聞くに堪えないほどであった。上司はノルマをかざして部下をつめるものだが、彼のそれはあまりにも度を越している横暴としかいいようがないものであった。

そのくせ新入社員とデキているという事実を聞かされたときはさすがに不快に思った。そんな状態であったものだから私を含めて全員が不満をくすぶらせていた。ただ私はあくまで他人のプライベートはどうでも良かったのだが、ある主任の1人は我慢がならなかったのであろう、反旗を翻し次長の転覆を企て今の部署から追放しようと賛同を募りだしたのであった。結託したうえで全員の辞表を集めて、役員に直訴して現状を変えてみせるという魂胆だった。私は懇意にしていた主任だったのですぐに了承し辞表を預けた。他の皆も任意で従った。全員に辞められてはさすがに上層部も困るだろう、しかも次長は単なる管理者であって具体的な生産的業務をしていない。彼がいなくても組織は機能するのだし、部下全員の信頼を失っている指導者は降ろさざるを得ないはずであった。勝算は我々の側にあるかに思えた。そして決戦の日が訪れ、犀は投げられた。

その日、私たち課員は固唾を飲んで状況を見守っていた。案の定、次長が呼び出しを受けて、真っ青な顔をして戻ってきた。それから何度もミーティングルームに入っては他の部長らと取り込んでいた。当事者ではあったが賛同した1人の平社員にすぎない私は近いうちに会社を辞めるとはいえ、少しの間でも伸び伸びとした環境でできる職場に変革するであろうと期待し、事の経緯を覗っていた。しかし、常務取締役の結論は意外なものであった。全員が辞めても次長を守るというまさかの信じがたい結果だったのだ。今でもその真意は明らかではないが、仕事人として練磨してきた常務の方が一枚上手だったのだと思う。

首謀者である主任は完全に返り討ちに遭ってしまった。それから私たちは一人ひとり呼び出され、事情を聞かれた。なんと私以外の課員は今回の件はお咎めなしにするとの条件を受け入れ全員素直に謝罪し今のまま仕事を続けると妥結したらしい。たしかに彼らは次長排斥に勝利することを確信していたので、逆の結果になろうとは夢にも思わず安易な気持ちで応じていたのかもしれない。そして首謀者の主任はさすがにもうこの職場にはいることはできない。会社を去るしかない状況に置かれたが、大人の計らいで隣の部屋の別の関連会社へ不名誉異動になったのだと本人から聞かされた。やはり本気で辞めるほど後先を考えておらず想定外の結果に本来の筋を通さずに落としどころを見つけたのだろう。本気で職場を変えたい、辞職も覚悟していた私はやや失望したもののいいきっかけだし、ようやく初めて自分の胸中を告げて私1人だけ辞めることになった。

この一件からは鬼のような次長も鳴りを潜めて大人しくなった。きっと上層から監督者としての不行きに関し灸をすえられたのだろう。別会社に異動した主任もそれなりにやっており、辞める私にも当の次長が主催してお別れ会を開いてくれるなど結果的に終わりよければ全てよしということになった。いやはや会社という組織はなかなかうまい具合にできていると思った。