着信が鳴った。

画面には“将”という名前
俺の、二人いる弟の次男の方からだ。
出るつもりで携帯を開いたが、手元がくるって、すぐに閉じてしまい不意に切ってしまった。
どうせまたかかってくるだろ。
全然連絡をとってなかったので掛けてくるのは珍しかった。
緊急か、いやどうせ大した用ではない野暮用だろう。
今日は暑い、水風呂でも入って図書館へ行こう。

風呂から上がったら電話してみよう。
俺は風呂から上がっても掛け返すのを忘れており、
趣味のギターを弾く体制に入ってから、すぐに母親の絶叫を聞くことになる。
「豪!豪!将に電話してー!」
あ、そういえば忘れてた。
わかったよ。るせーな。いちいち、いつも声を荒げて。
俺は着信履歴からワンタッチで“将”の番号へと掛けた。
出たのは“将”本人ではなく、彼の友達と名乗る新井という人物であった。
「もしもし、将君のお兄さんですか、お父さんから話聞いてますか?」
本人ではない人間が電話に出たことと先ほどの母親の絶叫と、これは尋常ではなく
将に何かあったのかと直感した。
「聞いてないけどどうしたんですか。」
「将君が僕たちと川で遊んでておぼれて意識不明で壬生の独協医大に運ばれたんです。」

今思えば、この説明は一言で結果を表しており、回りくどくない簡潔な内容だったと思う。
実際にはそんな客観的な見方をしている状況だったのではなく、
上半身から血の気が引くのを感じていた。
“意識不明”

テレビやネットの3面ニュースでよく聞く言葉だ。聞き慣れた言葉なのに、今回ほど聞きたくなかった言葉はない。
この言葉の次にあるのはそう、誰もが結びつけるであろう「死」という連想を俺も例外なく、いや普通の人よりもむしろ強く感じていた。
だが、新井君は将の友達、となると彼は俺よりも年下のはず、年下の人間に声から動揺と焦りを察知されてはならない。
腹の辺りで、チェーンの切れた自転車のタイヤが、カラカラと音を立てて一人でに回転しているような、気分だ。
状況をもっと詳しく知りたい。
「脈はあって喉に手を入れたら咳きもしてたんですけど、意識がなくて」
“脈はあって喉に手を入れたら咳きもしてた”
この事実は少し俺の不安をやわらげてくれたことは確かだ。
しかし、普通なら咳きをして苦しそうに息を吹き返すというそんなドラマのような結末になるのではないだろうか。

その時点で意識が戻っていないということはその後、まだ容態が回復してないどころか、昏睡状態が続いているのではないか。
医学的な知識はまったくないが、常識的な見地で言えば、重篤な症状が出て処置を施せない時間がたてば立つほど助かる見込みは反比例して減少していくと、いつか見たテレビの画面でグラフを使って説明していた映像がフラッシュバックされた。

もしかしたらもう・・・
100人が聞いたら少なくても過半数がそう思うのではないだろうか。

一連の出来事はわかった。
わかったといっても本人が今どうなっているのか、生きているのか死んでいるのかもわからない。
それを確認しなければならない。それには将が運ばれた病院へ行くしかない。
頼りがいのある兄、そして新井君にとっては狼狽するこなく同じく頼りがいのある年上の人間という印象を持たせるためにも、できるだけはっきりとした口調で病院の電話番号と新井君の携帯番号を聞き出した。いつもインターネットを使っているので最低限の情報があれば現地へ行くまでの情報はこっちで調べられる。

こんな状況にもかかわらず、
「無意識に対外的な取り繕いをする態度の自分が嫌だ」と最近、
俺が周りの友人に話していたような。
あくまで思い返してみればという自己分析だ。

現実には、用件を聞き終わって親父に電話しなければいけない、何度か四方八方の部屋の壁を見上げ驚嘆する、携帯を操作する手が震えている。
「何でこんなことになるんだ、最悪だ。」

とりあえずできる範囲で状況を把握しなければならない。新井君から聞いた病院の番号へかける。用件を告げると「家族の方ですか」と尋ねられる。
家族にしか知らせられない深刻な状況なのか。
後で分かったが、患者の個人情報の関係で基本的には親族以外にはあからさまに告げることはないのだという。
家族であることを告げると、どうやらすでに知っている情報どおりに確かに搬送されてはいるらしい。
しかし現在の状況は教えてくれない。
俺はこの担当者が、もう弟は亡くなっているから、電話で確認しようがない相手に印籠を渡すようなことは言えないので秘匿しているのかと勘ぐって、もう終わりだと思った。
このときの絶望感は筆舌に尽くしがたい。

現実には人生で何度もない緊急事態、そして自分史上最悪の絶望の頂点へのカウントダウン。苦しい、怖い、嫌だ、どうしたらいいんだ、逃げたい、誰かに頼りたい。
誰だ、誰に話せばいいんだ、真っ先に思い浮かんだのが俺が一番信頼できる生命保険のライフプランナーだ、でも彼は今日本にいない、ヨーロッパだ。クソ、こんな時に頼れないなんて。つくづくついてない。
彼が日本にいたら必ず来てくれただろう。信頼もさらに増したに違いないのに。仕方ない、そんな皮算用しても意味がない。
他に誰だ、誰に頼れる。

情けなかった。
自分の人脈で“この人”といえる人間がいなかった。
もっとも、まだ将の状態がいかがなものか判断ができない時点で事実を公開して後々迷惑を掛けてしまうことも憚れる。
しかし逆に申し訳ないとも思った。俺が知っている人たちに、こんな時に皆さんに助けを求めるほど、俺は皆さんのことを期待せず、信用していないのかもしれないと。

痛切に感じた、藁をもすがる状況であれば、心の拠り所を求めてもいい。弱くたっていい、それを批判する権利は誰にもない。俺は絶対に苦しい状況に陥っている今の自分のような状況にいる人たちの役に立つ。それを今なら理解できるから、それは俺が現に今経験しているから。
悲しみは人を強くさせるというが、経験に勝る教訓はない。

親父に掛けるとこの一件の情報は入っているようだったが、案の定というか、いつもとさほど代わらない口調で用件と母親への伝言を淡々と告げてきた。
うちの親父は大抵、本気になるということがない。それは今どういう状況か判然としない中で取り乱す人間とは違い、家族のリーダーであり家族の事情、特に今回のような緊急事態では指令塔になって将を除いた、4人の心が打ち砕かれるまでの、まるで剣道の試合の大将のような、最後の砦といわんばかりに全体を見据えた上での態度をとっている。それとも俺が新井君にとっていた態度のように実子の俺にも、年長者、さらには被害者である将の父親であるという責任からくる態度であるものなのか。

電話しているときは相手の顔が思い浮かばれる。
一番の苦境であるのは間違いなく父親だ。家族の全責任を負っているからであり、俺たちが成人しているとはいえ、実子に万が一ということがあれば「親より先に子が・・」という結末の悲しみは計り知れない。
将が助かって欲しいのと同時に、強いのか本当は強がっているのか、この親父の落胆して嗚咽を上げ男泣きしている姿を見たくないとも思った。

人間は強い者だけではない、本当は親父だって辛いに決まっている。
仮にも、そんな姿は墓場までもっていき、せいぜい俺たちには見せない我慢を貫いて欲しい、それが意図した振る舞いであろうが、冷たい人間だと思われようが。

用件を終え、親父と終話すると一階の母親へ親父からの伝言、さらには知っている情報を聞き出さねばと階段を駆け下りる。
こちらも、案の定とはいいたくないが、受話器を右耳に当てたまま呆然と床へ座り込んでいる母親の姿を見て少し腹が立った。女、いやうちの母親が特にそうなのかもしれないが、現実を受け入れられず、まさに自分が悲劇のヒロインであるかの如く感傷に浸っているような姿を、いったい誰かに見せたいといわんばかりに映った。冗談じゃない、一瞬そんな気がよぎりつつも、無駄な時間、非合理的な行動に到底付き合っている場合ではない。母親の言っていることも、もはやあてにならない。とりあえず、病院にいくには足が必要で壬生と聞いたときは高校時代に野球部の大会で行った野球場へいく途中の車窓から望まれた壬生駅の看板とその周りの緑、そして田舎の回想風景が思い出されたのでてっきり電車で行こうと思いついたが、3男であるもう一人の弟“大”が車を持っている。しかも一般的な乗用車でなくちょっとした大型ワゴンだ。これで直接行こう、高速を使えば電車より早いし疲労にもならない。もっとも、体の疲労なんかよりも、とんでもない心労が待ち受けていることは想像に難くなかった。

そのためには隣の部屋で寝ている大を起こさなければならない。車を出してもらうことも目的の一つだが、それよりも何よりも将の事実を告げなければならない。
驚くだろう。普段なら、自分が告げた話の内容が相手を感動させたり驚愕させたりするというのはちょっとした快感であるというのは誰にでもある野次馬魂だろうが、しかし今回ばかりはできれば言いたくない。ニヒルな大だって知ったときにはきっと悲しみ、大変な心配をするだろう。

何も悪くない人間、俺にとってみればもう一人の弟をこの悲しみに突き落とす役目は担いたくなかったが、そうも言ってられなかった。
ドアをノックし扉を開けると、大は今起きたという寝ぼけた顔をしていた。俺は心の中で起こしたことではなく今から告げることを「悪いな」と思いながら、叱るように起こしてから、「よく聞けよ、深刻な事態なんだから」こんな枕言葉で事情を手短に説明した。
大は車を出すことは了承してくれた、しかしこちらも案の定になってしまうが、ほとんど顔色を変えることなく、とはいっても俺と話すときはいつも口数が少なく神妙な顔をしているので2,3度頷いただけで大は体を起こし始めた。俺はそれを見届けることなく、自分の部屋へ戻り独協医大を検索して住所よりもアクセスマップで概要を把握しようとした、“壬生ICから5分”と出ている。大は意外にも素早く車に乗り込んだのを俺は自分の部屋の窓から確認できた。しかし彼は何を血迷ったのか、車を走らせどこかに走り去ってしまった。

何か用事でもあるのか?
5分くらいしても戻ってこず、まさか勘違いして「お前一人で行ってこい」という内容に受け取っていたのかと心配になり彼の電話に掛けるも繋がらない。「何やってんだよ」大がいなけりゃ俺と母親は病院へ向かう足がない。母親の元へ駆け寄り大の携帯番号を聞き出す。俺が掛けていた番号が間違っているかもしれないからだ、とにかく今は意味不明に走り去った大と連絡がつかなきゃどうしようもない。母親からもらった大の携帯番号を入力するとすでに登録してあった、「大携帯最新」という名前であった。俺は馬鹿だな、“大”“大携帯”と二つの登録した名前がありその下に3つ目のこの「大携帯最新」という名前が登録されてあった、掛けていた二つの番号はいずれも、使われていない古い番号であったのだ、しかも“大携帯最新”なんて動揺している時に瞬時に判断できない分かりづらい名前で登録して。

自分の非効率で、ずぼらな面がとても腹立だしくなったが、幸いにも大にはすぐつながり、ガソリンを入れているのですぐ戻るとのことだった。
大が戻ってきてからは準備を終えた母親が車に乗り込んだ。肝心の病院の住所をナビで設定できるかとの問いに、大はできると答えていたがなにやらルート検索に戸惑っている様子。俺は壬生ICから5分だから大丈夫だ、とにかく出ろと告げさらに病院に電話で直接住所を聞き、それを聞いた大がナビへ打ち込みようやく発車できる体制が整った。俺たちのこの一挙手一投足、そしてこれから費やす長い旅路の間も将の容態は悪化し、取り返しがつかない貴重な時間を蝕んでいるのかと思うと、この時間が立つのを止められない性に、歯がゆいなんとも悔しい思いがしていた。

もうこの世にはいないのかもしれない。

なぜならば、大きな大学病院に運ばれたのだし、優秀な医師が適切な処置を施しているはずで、助かっているなら助かっているだろうし、最悪、万が一の結果であったとしても、今俺たちが一分一秒を争って向かう意味はないんだ。そう割り切るしかなかった。
そして、この車中にいる男性で年長者は俺である。にもかかわらず運転という大役を任せてしまって、大には申し訳ない。

「お前は車も持ってないで・・」友達からそう批判されたことがあった、確かにこの車社会の埼玉の地元で車を持っていないのは不便である。ただ、昨今の燃料高や税金などを払ってまで車を所有するなどの価値がどれほど高いだろうか。そう思ってきたが、今は緊急事態という現実を突きつけられ、大がいなけりゃ生死の淵をさまよっている兄弟の下へも、ろくにいけやしない。助手席に座り屈辱を感じていた。

大にはなるべく心労をかけないで運転をしてほしい。この最悪な状況では大に対しては気さくに話しかけてやり、大との歴史上では、鬼兄であった自分のイメージを和らげ、さらに緊縛した雰囲気を作らせないように色々な話をした。

現在、俺は人と話すのが下手ではないし苦でもない、どちらかといえばどんな人間とも初対面で話せるしどちらかといえば話をするのが好きだ。しかし家族に対しては全く逆で、用がなければ一切喋らない。そういえば大ともまともに話をしたためしがなかった。だからといって大に話掛けるのが気まずいとか、こんなときに限って仲良く話しても、という躊躇する気持ちもなかった。前述のように人付き合いが上手と自分で思うようになったのは、単に経験を踏んで多くの人と、特にビジネスや社会的な付き合いで場数を経てきたからだ。相手が弟であって5つも年下のあのへなちょこな大である。この車内にいる3人は全員胸中穏やかではないのであって、ましてや一番年下で運転の大役を担っている大にはその悪い心持ちをなんとか紛らわしてほしいと、彼の仕事の話を中心にずっと話しかけていた。そこで初めて分かったことなどが多くあったが、大方、大が大型車の運転を職務としていることに少し心配を感じて、できれば事故の危険性がないような教養を用いて遂行する業務なりを目指してくれないかと、口には出さずにそう思った。

母親は俺たちの会話には入らずに手に持った数珠を絡ませ、ときにジャラジャラと鳴らし、念仏を唱えていた。古い人間、言っちゃ悪いが、特に無策な人間は宗教というす
がるものがなければやってられないのだろうか。そんなことしたって意味が無いんだと心の中で思いつつもこちらもあえて口には出さずに、訝しげに過ごしていた。

乗り込んだ当初、母親がお前たちも祈ってくれと言ったり、何かと落ち着きなく慌てた様子を一喝するために、「どうせ大丈夫だから落ち着けよ!」と言ったり、大に諭すように「将は大丈夫だからお前はしっかり運転してくれ」といって根拠のない自分の楽観視を示していたが、正直、かなり自信がなく虚しい限りだった。もし一隊を鼓舞する優秀な軍曹が自分であったならそういって兵に勝利を信じさせるのが自分の仕事だと思っていたからだ。
しかし、今考えれば、誰がどう見ても絶望に満ちた人相をしていたに違いない。

Jさんは生命保険会社の一流のライフプランナーだ、たとえ地球の裏側にいようが今は携帯も進化しているから繋がるかもしれない。ちょっと彼を侮っていたな、というより先ほどは正常な判断や憶測ができなかったのか。
ちょっとためらったが携帯にかけてみる。

出ない、しかし数分後“通知不可”でかけ返してきた。「ボンジュール!」何も知らない、おどけた彼の声を聞いて少しホッとした。
安否が不明な状況で弟のことを話すのはまだ早いと思い、「つながるかの確認でした」と惚けていつ帰国するかの2点を確かめ、すぐに切る。
病院につき全てが判明したら再度、お世話になろう。正直、こういうときに助けになってくれなければ彼の仕事の意義がない。
そして何もかもさらけ出して、彼に連絡をするというのも彼に対しての敬意でもある。

車窓から流れる景色を眺め、
将のことを考える、そして今後の自分の身の振り方も。
将にいたっては最悪の結果を前提に考えていた。最終的に至った結論は「しょうがない」はっきりいってこれしかないと思った。水の事故というのは本人に不注意はあったのかもしれないが悪気はなかったんだ。それが運命だったと結論付け、未だ見ぬ変わり果ては姿との対面を覚悟しなければならない。
そして、これからこなしていかねばならぬ手続きの忙殺と、抜け殻になりかねない残された両親の心情を察した世話、末弟大への気遣いと協力そして将の分までの弟孝行。
そして計り知れない俺自身の心の苦闘。

思い返せば兄として兄らしいことは何もしてやれなかった。それだけが心残りで悔やまれる。将とはもう何年も、約5年ほぼ全く会っていなかったのだが、ひょんなことからつい1ヶ月前に探し物を取りに家に帰ってきたのだ。
ドアを開けたのは俺で、ほんの一瞬だが誰かも分からず、すぐに将とは分からなかったがこんな容貌になってたのかと驚いたくらいだった。
その時には今どこに住んでいて何をやっていてという概要を世間話程度に聞いた。彼も用があり、俺もちょっとしたら出なければならなかったし、何するということもなくその時は見せびらかすつもりで俺がマスコミに取り上げられた雑誌と新聞を見せたら「すげーじゃん」と言っていた。

まさかあれが最後になるとは。
そういえばいつだろう、将が死んでしまった悪い夢を見たときがあった。一年前くらいかそれよりも最近だろうか。そのときはすごく嫌な気持ちを夢全体が支配していて、目覚めたときに汗だらけで夢かと安堵してほっとして何事もなく過ごした。その時、普通の兄弟なら心配して電話を掛けたりするのであろう。約5年も彼のことを案じることもなく、結果として見放していたことは厳然たる事実である。

しかし申し訳ないが、もし5年間一緒にいて仲良く過ごしたり、もっとクローズな間柄だったら、この一報を聞いた時に俺はすでに打ちのめされていただろう。
かなわぬ願いだが時間を3時間だけ戻せないだろうか、あのとき出るつもりで出られなかった新井君からの“将”の電話をせめて出れていたことを自分の過去にしたい。
俺は最後の最後までも将の存在を蔑ろにしてしまった。
俺の人生において、いまだに自分自身を認めきれないのに、さらにその究極の原因を永遠に背負うことになりかねない。こう思うことさえも自分中心だ。
自分の非を感じるのと、将の容態が分からない釈然としない最悪の気持ちでさらに、葬式ではどれだけの人が来てくれるであろうか、あの人はきっと来てくれるだろう、俺が少しは人付き合いがあるから包んでいただくお金が少しは増えるかとか、“最悪な状況の中でも肯定的”を履き違えたようなそんなことさえも考えていた。

ナビに映る壬生ICが近づくに連れ、段々と緊張感と嫌悪感が増してくる。ICを降りたときはいよいよかと腹をくくった。ここまできたら早く会いたい。今どんな状況なのか、いかなる状況でも受け入れる覚悟はしないとならない。国道を走りナビが目標地点の到着を示すと木々に覆われた巨大な建物群が見えてきた。看板に独協医大病院と書いてある。ここに間違いない。今俺たちが通っているこの道を救急車で将が運ばれてきたのか。
そんなことを一瞬考えながら、看板をたどって救命センター受付にたどり着いた。大は車を置いて後から来るように言って、俺と母親は受付に行き、将の名前を告げる。

すると「入院になりましたのでこちらの書類を書いてください。」と言われた。母親が応じていたが、俺はこの職員の言った“入院”という言葉が、もしかしたら普通の入院患者レベルになったのかと一縷の望みを見出そうと努力した。
少なくても死んではいない、それは確信しても良いかもしれない。待ち時間があったのでトイレに入り、用を足して前向きに考えることにした。将は意識を取り戻し、今では普通にベッドで寝ているだろうと。

係員に連れられ、エレベータをあがる。看板に左ICU。右、救急救命センターと書いてある。俺たちは右へ案内されたのである。詳細は分からないが漢字の意味合いからしても“救命”こんな一大事の名のつく方向へは行って欲しくなかった。

案の定、ついた場所は明らかに一般の治療室ではなかった。大きな自動扉がありその中に屈強な機器や多くの人材が働いているのが時折開く扉から垣間見え、まさに全精力を挙げた医療部門だとすぐに分かった。
この中にいるのか?少し前まで台頭していた楽観論が俺の脳から急速に勢力を弱めてしまっていた。間違いなく、生きるか死ぬかの急患が入る場所だ。いまだにここにいるということは一体どういうことなんだ、先ほどは入院になりましたと聞いたから死んではいないのか、意識がないことには変わりないのか、意識が回復したら外傷などはないはずだからすぐに家族に伝えてくれても良いはずなのに。

とても待たされた。そのうち大もやってきた。さすがにこの場で気さくに大と話すことはできなかった。しかし母親がトイレに行っている間に俺は重い口を開いた。「どんなことがあってもしっかりしろよ。男なんだから」
まるで自分に言い聞かせるようだった。大の存在は俺にとってかなり助けになった。同じ兄弟だからだ。それ以前に同じく実際に大も将とはだいぶ会っていなかった、恥ずかしながら彼らも交流は全くなかったのである。大は将の弟だが、同じ境遇に悲しみが少しは分散される思いがしていた。俺は将の兄であるにもかかわらず。

大はうんと頷いた。

周りにも救命センターへ入れずに待っている他の家族がいたが、やがて出てきた看護婦が話した内容から、とても安堵し、笑顔がこぼれていた。ある人はその場にいない関係者に連絡しに行くようなしぐさでその場を離れたりと、あぁこの家族は無事だったんだな。
正直、俺の心持ちは良くなかった。

人間誰しもそうではないか、今自分の家族が苦痛に喘いでいるであろう状況下で赤の他人の快気を心から喜べる人間などいないはずだ。
少し経ってそんな陳腐な考えもさすがに吹き飛んでしまう壮絶な光景が俺の目の前を横切った。20代半ばの若者くらいだろうか、足に酷い傷を負っているけが人かと思って見上げたら全身血だらけで顔や上半身も酷い外傷で尋常ではない事故に巻き込まれたとすぐに推測できたが、何といっても、白目を向いた朦朧状態でウ~ウ~唸っている、苦しくて苦しくてしょうがないというまさに満身創痍、瀕死の重傷患者が運ばれていったのだ。

戦慄が走るとはこのことではないだろうか。
声には出なかったが、俺は腹の中で「うっ!」と叫んだ。
しかしあの患者は確かに痛そうであったが、声が出ていただけ、微かな意識があるのはうちの将よりはまだましなのではないかと。
自分でもなんの比較をしているのかわからないが、悪い方へ考えたほうが実際に悪い結果だったときにそれほどギャップがなく現実を受け入れられるのではないだろうかと考えたり、俺の頭の中は混乱していた。
そう、全ては状況を把握できないからだ。だからといって何ができるだろう。

単身赴任の静岡より向かっている親父から頻繁にメールで移動状況が入ってきた。
電波が入っておらず、なかなか返せなかった。
親父からのメールの中で、「手遅れにならないよう的確な治療ができる専門の医師に来てもらい、何とか頼むよう言ってくれ、母親からも言わせるように」とあった。
俺はそれを見た瞬間全くそのとおりだと思った。そしてそれを到着した時点で俺たちが、いや俺が直ちにそう行動するべきだった。
親父、そして将、申し訳ない、俺はどんな時でも最善を尽くすということを心がけているが今の俺はそれすら思い浮かばず、ただ、ただ呆然と考え事をするだけだ。

一時間くらい待たされただろうか。ようやく看護婦さんが出てきて、今は先生がおらず、説明を看護婦さんからすることはできない旨告げられた。だが、将の現在の状況を教えてくれた。その内容は俺が今まで聞いている内容とほとんど変わらないものだった。
未だ意識は戻らず、寝ている状態だと。

アレルギーはあるかとか、色々母親が聞かれており、俺はこれ以上の情報は聞けないだろうと黙り、また待つことにした。
担当医は他の救急にあたっているとのことでいつになるか分からない。大と一緒に少し離れた長いすに座る。今日は本当に疲れた。でも死んでしまったという最悪の状況は免れた。
しかし意識が戻っていないのに喜べるはずもなく、まだ俺たちの苦闘は続いている。
他の家族が数人集まってきた。なにやらちょっと若いころやんちゃだったような人たちだ。神妙な顔をしている、俺はうつむき目を合わさずに彼らの話している内容が耳から入ってきたので、推察させてもらった。

彼らはあの重傷患者の関係者らしい。乗り物、バイクか何か、の事故だろうか。
その後おそらく患者の恋人だろうか、すらっと背の高い細身の美人が駆けつけた様子で、彼らと話をして少しすると泣き出していた。
本当に悲しそうな泣き声で泣いていた。さすがに俺も可哀そうだと思った。
本当に俺たちと同じような状況で生き死にをさ迷っている患者本人を哀れみ、なぜこんなことになったの、というやりきれない嗚咽だった。
俺はずっとうつむいたまま、なぜ人間は不幸を背負ってしまうのだろうと考えた。だが、深く考えるのはやめた。

時間は19時くらいだろうか、ようやく看護婦さんから再度の呼び出しがあり、大が見つからないので母親と二人で救命センターへ入った。とても広く、まさに最先端という名にふさわしい施設だった。そんなことを思うよりも将はどこにいるんだ、早足でついていき、きっと俺の顔の眉間には皺がよって、真剣だが怖い形相になっていただろう。
医療関係の人以外が見たら少しひいてしまうかもしれない威勢もあったかもしれない。
奥へ案内されるとそこには管を口に思いっきり入れられた状態、その他諸々の検査用のセンサー等体中に張り巡らされた将がベッドに横たわっていた。

呼吸をしているが人口呼吸機でなされているものなので安心はできないが肺の活動や心臓は動いているんだな。見方は分からないが心電図のようなものがおそらく異常ではない程度に波打っているようだ。
しかし目を閉じた将はピクリとも動かない。普通寝ている人ならまぶたの下の眼球が少し動くのがわかったり、体を触ったりしたら何かしらの反応なり抵抗があるはずだが、完全に何の意思も持ち合わせていない、体という物体がそこに横たわっているだけのように感じた。見た限りでは起きる見込みがないように思えてしまう。可哀想に。まずそう思った。俺は少し絶句に似た状態に陥ってしまったが、母親が耳元で将にささやき話しかけている。

急にくるもんだな、いきなり胸がこみ上げ、涙がすごい勢いで出てくるのが分かった。いけない、「大呼んでくる」俺はその場を逃げるように、小走りに去りながら、襲ってくる激情を押さえ込んだ。泣けば少しは楽になるだろう。でも今泣いても仕方がない。とりあえず大だ、あいつは何やってんだ、隠れて携帯をかけてみるが、繋がらず。

嗚咽に似た呼吸を整えるのに少し時間がかかった。
しかしやばい、こんな心情、本当に辛い。自分で自分の感情は抑えられないものなんだな、これは俺がまともな人間だという証なのか、少し間を置かなければ将の下へは戻れなかった。結局大は見つからず。

戻らなければ、戻ってやらなければ。
俺は逃げたんじゃない、今いる家族の中で俺が一番率いていかなければらない立場なので感情を露にしてはならない。そう考えた俺の判断、いや正直言ってそれ以外にはあまりにも急な感情の高ぶりに驚いてリセットさせなければという理性が起こした反射的な行動だったと思う。

戻ると個室で母親と、担当医師であろう若い先生がPC画面を見ながら話しをしていた。俺もすぐさま加わり先生の話しを聞く。詳しい運ばれた状況を述べていた、それはまさしく生々しい当時の描写を頭の中に描くには十分なものだった。

山中の清流で、友達連中とバーベキューをしていて魚を捕ってくるといって一人でモリを持って川へ入っていき、5分後に川に浮いていたところを友達に発見され助け出されたというものだった。“5分”と聞いてそれだけの時間か、でもたった5分でだめになるのか。と思った。
それから救急車を呼んで、現場到着したのが通報の2時間後と聞いて母親の驚嘆と同時に俺も苦しい表情を隠せなかった。そんなに経っていたら普通正常な回復は見込めないだろう。しかし話の続きでは病院に運ばれた際にベッド上で暴れだしたということで、意識レベルが最低から9段階で3段階アップした症状になったということを聞き、何らかの予兆かと期待を持った。しかしながら意図的に強い刺激を与えても何しても反応がないと。先生の言葉に一喜一憂しながら、それでも決定的なダメージなどはCTなどから見ても判明せずということで望みが繋がったのだが、この先生の表情からは全く希望が持てなかった。断定する判断材料はないのは確かだが、言い方が極めて慎重で決して楽観視をするような見解を示さないのだ。もちろん最悪の想定も言わないのだが。結果的に今日は休日ということもあり、明日精密検査で確かめ専門医とも相談しなければ将に何が起こっているのかわからないということだった。アルコールが入っているということだったので、俺はもしかしたら飲みすぎのたちの悪い酔っ払い方で泥酔状態なのではないかと楽観論を質問してみたが、先生はそれには否定的であった。確かに机上の議論で楽観論の可能性を探っても仕方がない。

俺は質問もほどほどにし、よろしくお願いいたしますと伝えて席を立ち、再び将のもとへ向かった。俺はさっきいったん気持ちを落ち着かせたので、再度感情が高ぶることはなかった。そして手を握りしめ話しかけた。「お前、必ず起きろよ、起きて一緒に飲みに行くぞ、なぁ頑張れよ。絶対大丈夫だからな」

こいつは俺よりも何倍も強そうな頑丈な体してるのにこんな姿になってしまって。
それを知ったのも今の今まで将を視覚にも人間的にもしっかり見てやっていなかったから。何もしてやれない自分が本当に情けないと思った。
月並みのことしか声掛けてやれない、もしかしたら生命活動をしている間に話しかけられるのは今しかないというのに。俺はやはり「なんでこんなことになったんだ、一体お前に何があったんだよ」と世の中の輪廻と将の不幸を懐疑する思いが強く、原因と結果をどうしても知りたいと思った。
また再会するときは起きていて欲しい、そう願ったが現実にはかなり難しいだろうという思いを自分の中で感じながら俺はその場を去った。

後から大が来て母親と入っていった。
大は将を見てどう思っただろうか。
きっと人生経験も少なく、実の兄という肉親のあの姿を見て、外見を平然と装うことはできても内心ショックを受けているに違いない。
人間、少しは感情を表に出し、喜怒哀楽を表すことは必要だと思う。
大にはそれができないのかもしれない。
俺も人のこと言えないが、しかし年をとるにつれ感受性が強くなっているのか、涙もろくなっているのか、そして感情表現をもっとしていこう、自分を見せていこうという意向が無意識に働いているのか、自分自身の、将と対面した瞬間の精神的、生理的現象に納得はできる。あの状況で何も体に変化が起きないほうが自分自身、俺は納得できなかっただろう。

午後九時には宇都宮へ着くという親父の連絡から逆算して、もう少しで最寄のおもちゃの町駅へ着くころだ。大の車で迎えに来て欲しいという依頼をOKと答え、俺も便乗し大に駅へ向かってもらった。親父が着くまで10分くらいあったので路肩に車を止めて大と少し話した。このときに将とは5年会っていないと聞いた。そしたら俺もあの一件がなかったら5年会ってなかったのか、長い、長いよ、5年は長い。5年何の音沙汰もなしに将が帰ってこなかったというのもあるが、うちの家族は俺も原因なのだろうか、将を避けているような近寄って欲しくないような印象を与えているのではないだろうか。
将が連絡をしてこないのが悪いのではない、会社や組織だって新入社員や部外者が入ってきたら、当然年長者や先輩から親しく声をかけてやるのが通常じゃないか。
あいつは生意気だから仲良くしたくないとか、年下なんだから挨拶しに来いとか考えている偉そうな上の立場の人間は俺は大嫌いだ。
自分より強い立場の人間のご機嫌を伺い、弱い立場の人間をいじめたり、見捨てたりすることは誰でもできる。
しかしその逆は誰にでもできることではない。強い人間へ立ち向かう勇気を持ち、弱い人間を守り、人望を得るというのはまさに男の中の男だ。
そんな人間になれなくてもいいが少しでも近づきたい。

しかし現状の俺はどうだ。意図はしなくても将に対しての思いやりに実際には何も考えていなかった。微塵にも。
俺はまるで悪魔だ、将は確かに頭もよくないし野生的で不器用な人間かもしれない、しかし純粋でそれからくる遠慮や俺たち家族に対する今までの負い目があり実家に帰れなかったのではないか。俺は将の遠慮を逆手にとって、それを心の片隅で都合が良いと思っていたのもあったのではないか。

このまま目を覚まさずに逝かれてしまったら、あまりにも不幸すぎる結末を身内の人間に与えてしまった取り返しのつかない過去を刻み込んでしまう。雪のように、省みる点がたくさん降り積もってくるが、将がいなくなってしまえばこの考えも永遠に解けることのない永久凍土として俺の心に硬く凍り付いて離れないだろう。

いつか忘れられるかもしれない。過去の大きな悲しみも時間の経過とともに色あせ思い出になっていることと同様に、やはり今日から始まる長く辛い試練もいつかは日の目を見ることになり凍った心を溶かしてくれると信じている。
それまでの期間、俺は将に対する懺悔の気持ちを持って耐えなければならない。それは自分にとっては償いのようなことである。自分が辛ければ辛いほど将の気持ちを理解してやれる。
そう覚悟した。

親父から連絡があり着いたとのことで見つけて拾う。
第一声が「やってくれたなぁ」とまるで将がまた悪さしたような言い草が気に入らなかったが、古い人間の価値観かもしくは気丈に振舞う態度の一部なのか。
とりあえず、病院に向かう。

親父を病棟へ案内し、母親とともにすぐに将のもとへ行ってもらう。俺たち同様何を思うだろう。自らの内から来る衝動には耐えられるような人間であると思うが。とてもじゃないが正常な精神状態ではいられないのではないか。まぁ深くは考えずに親父本人から感想を聞くなんてこともしないでおこう。
俺は大を帰宅させる。兄貴面で気をつけて帰れと一丁前に捨て台詞を吐いて別れる。
大、ありがとうよ。事故るなよ、本当に。

残った両親と俺は早速予約したビジネスホテルに行くことに。将のバッグを俺は持つ。将の持ち物、持ち主がいつもと違うんできっと違和感があるだろう、できれば俺だって持ちたくないで本人のもとへ返してやりたいが仕方ない。主は今大変な状況になっている。
しかしこの衣類、普段は洋服として体に身につけるものであるが、看護婦から透明のビニール袋に入れられた、今の今まで本人に着られていたが、今は着ることのできない単なる着衣として渡されたときの、あの残酷な気持ちは表現できない悲しさがあった。まるで遺品として渡され、今は洋服さえまともに着ることも管理することもできない将本人の状態を、無言の事実としてはっきりと突きつけられたのだから。

病院近くのホテル石村、分かりづらい夜間通用口から入り、置いてあった鍵をそれぞれとって各部屋へ入っていく。
正直疲れた。ベッドへ寝転がる。
つけたテレビのジュラシックパークの俺の目に映る内容がなんとも味気ない。映画を無心で見て楽しめる人たちが羨ましい。
色々考えてしまう。やはり後ろ向きなことしか考えられない。どう考えても与えられた情況から判断するとケロッと目覚めて正常に何も問題なく起きだして生活できるとは到底想像できないと思ったからだ。俺が見た将はそう、まさに植物人間だった。眠っているというよりは、生きているだけという感覚だった。

あそこから復活したら奇跡だよ。
この不幸な俺に奇跡が起こるはずがない。
会社を興したと思ったら一年目で挫折するし、好きな子に対してはどう考えても両思いなのに好機を逃してしまうし、その他不幸の下に咲いている人生というのであれば完全に間違っていない。自信を持って断言できるくらいだ。

その俺に降りかかる運命が大逆転のサヨナラ満塁ホームランが出て、明日、鎮静剤が切れたときに将が目覚めている。ありえないな。
残念だが苦しい運命を呪っても仕方がないので現実を受け入れる覚悟を固めよう。親を中心にさすがに俺にも負担が回ってくるだろう。今までのやりたい放題の人生には終止符を打つ可能性もある。

友達に℡してフランスが何時だか聞き、Jさんに再び℡する。かけなおしてくれた、さすがに緊急ですかと。「緊急です。」と言って話し始める。
洗いざらい話しをする。彼は独協医大には何度もいったことがあると。あそこなら大丈夫だと。具体的なアドバイスはなかったが、まぁそれを彼に求めても仕方ない、聞いてくれただけでも少しは楽になった。旅行で楽しんでいる最中にこの気持ちを共有してもらうのは悪いと思ったが、それを話せる存在である彼を信頼しているからである。
いままで何年も付き合っている何十人の友人、知人にはそれができなかったのだから。

外のレストランに誘われ両親と食事するこのシチュエーションも何年ぶりなのか。この心中ではあるがさすがに腹は減っており、ハンバーグカレーを頼むとすぐに平らげる。親父はビールを飲み、自分の近況と自慢話しを始めた。
俺はこの状況でビールを飲めないのだが、親父と俺の考え方には少しずれや食い違いがあるのかもしれない。しかも時には笑顔で笑っているが、まぁ、最悪親父の落胆する姿を見る可能性は少ないことに少しは安心した。

Fさんより℡、旅行の誘いで℡してくれたが、現状を話す。彼も察したのか話しを聞くだけ聞いて「悪いな、また今度な」といってくれた。
ちっとも悪くない、話しをできる人間がいないこのタイミングでよくぞかけてきてくれた。少しは楽になった。彼は去年父親を亡くしているので辛さを共有してくれるだろう、とはいってもこちらは26歳の若い命である。割が合わない、やはりやりきれない。

席に戻ると、親父が本題に入るがといって、今回の将の件でもし脳死と判断されれば両親の代表として生命維持装置を外すという意思があることを発言した。母親もそれには同意していた。確かに脳死であれば生き返る見込みはないであろう。俺も死んでいるということに変わりはないと思う。そして親父は、自分たちが逆の立場になったら同じくそうして欲しいと、これは口頭で酒の席で話す内容ではない。
うちの親父の悪い癖だ、大事な内容を口頭だけで「自分は言ったからな。」といわんばかりにお互いの了解とみなすのは。

だが、この意思疎通は万が一の究極の状況下で判断を図る上では極めて大事なことである。
死を選ぶのは自分でも自分以外であってもならない。
故にこの世にはやむを得ない例外が存在するのは詳述するまでもないし、哲学的な理論を並べるつもりもないが、この意思がなければ残された家族は一生、精神的かつ経済的十字架を背負うことになる。
そうまさに俺たち家族が今抱えている苦悩のように。

生命維持装置を外すことを了承する意思を予てより示していたら、少なくとも本人の意思は反映されたことになる。そして費やすであろう甚大な労力と莫大な経済的負担も背負うことはなくなる。
しかしこの意思がなければ、たとえ装置を外さざるを得なくても、本人の意思を一切知ることなく、わが子の生命を絶つという行動を強制的に、肉親など世話になった愛すべき人間に強いることになるのである。計り知れない大きな十字架ではないだろうか。まさに究極の不幸を最愛の家族へ与えてしまうのである。

俺はこの事実を今、死の淵をさ迷っている将には悪いが、“罪”と感じている。広く考えを展開してみると、この罪を故意に犯した殺人犯などは言語道断、裁判で断罪され懲役刑として服役したとしても刑務所の中でまともに生きれるのが現実だ。役務とはいっても仕事ができるし、飯も食える歴とした生きる権利ではないか。

一方、生きる権利を奪われた被害者はどうだ、やりたいこと、夢や希望を突然絶たれ、愛する人々にも何も伝えることができずに、断末魔の苦痛を伴い人生全てが突然終わる、被告人が行使できる弁論の機会や、減刑の可能性とは対照的に何もできないのだ。何も・・・死んでしまったら何もできない。無念極まりない。

さらには残された家族も同様に、今俺たちが感じている絶望を悔恨の念とともに一生背負うことになるのである。はっきり言って犯人にとっては“やり得”なのではないだろうか。究極の不平等だと思う。通り魔事件が多発しているが、報道で知る事実の中だけでは、到底伺い知ることのない、被害者遺族の心境を察するには軽率にも考えが及ばない。世の中には平気で命が粗末に失われている状況がなくならない。
段々と厭世観が強まっていく。

そういった意味では、不運でしか説明がつかない今回の事故だが、一部本人の不注意、そして現実に今俺を含めて大事な家族を陥れている困難という結果の原因を張本人である将に求めれば、やはり罪深き台風の目であることは否めない。
「目が覚めたら、思いっきりぶん殴ってやる。」
殴られるに値するほど何もかも台風のようにメチャメチャにしているからだ。
俺は実際に殴れることを切望した。
言うまでもないがそれは、将が目覚めること、つまり奇跡が起こることを前提にしてでしか出来ないことだからだ。
何もかも一切合財、この未曾有の苦労に対する対価を請求してやる。
こんなくだらない思いが頭の中を巡っては消えていった。

「今日は疲れた」といって俺は一人レストランを去った。
部屋に戻る。
診断書に書かれていた病名”低酸素脳症”とはどんな病気だろう、酸素といったらYさんだ、聞いてみようか。
彼は高濃度酸素吸入器を中心に医療機器を扱っている経営者だ。
当然、酸素が脳に与える影響による症状や機能障害のことも知っているはずだ。
彼は忙しいが、案じて来てくれたりはしないだろうか。
何せ兄弟が溺水して意識不明の重体なんて聞いたら、誰だって心配する。
人一倍、人縁を大切にし責任感ある経営者であれば尚更放ってはおかないだろう。
彼に余計な負担をかけてもしょうがない。もっとも、俺が今彼から知識を吸収してもどうなるわけでもないのだから。

心労と同じように肉体的疲労も限界に来ていた。
判然としない状況というのはある意味最悪の状況ではないということなので、テレビのF1中継を観戦することはできた。
若いドライバーが活躍している。
幼いころから表彰台に立てることを夢見て頑張ってきたとインタビューしていた。
往年の夢がかなう瞬間というのはきっと格別だろう。
若い弟の将来も、まだ長く残されていたのに。
そして、信じていたまだ見ぬ輝かしい俺自身の未来も何の柵もなく突き進んでいけるはずだったことも。

トップドライバーの彼らのような日のあたる場所へ躍り出ることなど、もはや夢見る権利さえないのか。健常者が何の不自由もなくこなせるなんでもない行為がこれからは俺たちの目標になっていくのか。
一般人よりも大きな舞台で、小さいなりにも会社を経営し、多少なりにも優越を覚えていた自分が惨めすぎる。
結局こんな末路か、俺らしい。
思い描いた人生のすべての理想は空想と化し、まさに絵空事になって、どうやら決してたどり着くことのない別世界にいってしまったようだ。
これから暗く、険しい人生が始まるのか。
俺は狭い部屋の一点を見つめながら、脳のほぼ大半をこのような否定的な見方で占めていた。

眠りが浅かったせいか。
“将が普通に覚醒し、傍に立っている”
確かにこんな夢を見た。
皮肉にも夜、不眠にならずに眠れたのは疲労のせいだろう。
しかし夢を見るということは俺の体全体が今回の成り行きを敏感に気を張っている証。
そんな自分の状況を客観的に捉えることができるのもいつまでであろう。
翌朝、目覚めると眠気は一切ない。見た夢が夢であったことに失望する間もなく、すぐに記憶のゴミ箱へ捨て去り、また憂鬱な一日が始まる。でも今日くらいははっきりしてほしいと現実を見据えた考えに切り替えた。

”できれば鎮静剤が切れて目を覚ましていてほしい。”
いくつかある結果の中の一候補、俺が一番望んでいることだ。
祈るわけでもなく、縋るわけでもなくただただそう思っているだけだ。
母親のように宗教を通じて祈るという作業をせずに俺は何の努力もしていないが、後悔することはないと思う。
間もなく親父から℡があり、着替えて出る。
ホテルの会計を済ませ、老夫婦である両親二人を俺が先頭に病院までの道のりを歩く。

暑い。
しかし気温が異常に高いわけじゃない、何か俺たちにとって、とても嫌な暑さ、忘れられない暑さになるような気がした。
俺は一言もしゃべらない。
まるで俺が二人を率いている上の立場であるかのようにとても偉そうに、気を使わない歩き方で。
一方で俺自身とても悲しく惨めであった。
こんな小さい体の両親を一度も来たことのない栃木の片田舎で何の得もない作業を強いているこの不利益と実際には将にも対する怒りとが交差したため息を深呼吸にかえて、病院に入っていった。

昨日と同じ救命センターへ何の宛てもなく到着したが、やはり面会時間が決められているとのことで午後3時にまたここへ来るようにと3人で約束し、俺は一人でふらふら歩き出した。この病院内にスタバがあるのは知っていたが、スタバの横を通る際に、俺はあと何度このスタバの横を通るのだろうと考えた。行き交う職員と同じく、ここの一住人の関係者になるのか。
とにかく極めて密接に関わる病院であることは間違いない。
外来診療で来ているだけの程度の軽い患者方が今では遠い人たちのように感じられる。やがて冷房の利いた誰もいない待合室へ着いた、ここで休んでちょっとしたら移動してゆっくりするか。

今日から平日だ。俺の仕事はネットでできる。携帯からすべて処理できるし上司もいない、誰に気兼ねすることもない。しかし、今日までにしておかなければならない高額の振込みがあったことを突然思い出した。
結局、取引先の配慮で明日でよいと許可をもらったが、もし昨日の時点でこの案件を思い出していたら俺はこれを理由に大と一緒に家路についていたかもしれない。俺がここへ残ったのは一家族であり、兄であるという義務感からだ。実際には襲ってくる恐怖から逃れたい、家へ帰って結果だけ聞き、両親にすべて処理させたい、と甘えた考えがあった。ただそれを具現化してはいけないという俺の理性が抑えて行動している。

本能は違った。現に昨夜、ホテルを予約してくれと親父に頼まれたときに、一人部屋を二つ。つまり両親の分しか予約していなかったのだ、俺は後でどうにかなると思っていたが、その時点では自分が泊まるということを前提にしていなかった。
思いやりの欠如だ。いつだって自分の利益あるほう、被害が及ばないほうへと行動のベクトルが向いてしまう。
ただ、その可能性があったというだけで、もし振り込みの件を思い出していたとしても帰らない自分がいたかもしれないし、過ぎ去りし別の道を論ずるのはやめよう。

天気の良い日だ。昨日や今までの重い気持ちよりはだいぶ落ち着き、長椅子でボーと過ごす。時間はあれど書物などを読む気にもならない。携帯から数件受注の連絡が入って折り返したりと業務をこなす。こんな状況下でもお客様が求めてくれるのは大変ありがたいことだ。救われるし、気も紛れる。

昨日の重傷患者の家族方が来た。俺のこともわかっているだろう。俺の服装が変わっていないことや表情を見て、共に苦しい状況であるということを察してくれているに違いない。しかし彼はどうなったのだろうか。俺の知る由ではないか。

うとうとし、ちょうどあと一時間というところで飯でも食っておくかと食堂へ向かった、利権丸儲けの法外な値段、馬鹿らしいので割安な菓子パンを2個ほど買ってテーブルへ行き一人で食べる。
大きなガラス張りの壁で外の森や自然が青々と満ちている。手前の職員グループの人たちはいつもここで食べているのだろうか。きっと彼らにとってはごくごく普通のランチをとっているに過ぎない日常の一コマであろう。しかしここでやつれた顔で遠くを見つめている男にとっては最後の審判を待つ最後の晩餐であるが如く意義の深い時間が流れている。
ごく普通の訪問者としてこの店に来たかった。
そして外の木々を見て、素直に綺麗だと感じたかった。

食べ終わっても少し時間があるが、片付けてどこかへ行くつもりもない。空いた皿を前に、何をするでもなく佇んでいる俺を店員は少し不審がっていたのかもしれない。それとも早く席を立てと無言の圧力をかけているのか、それは俺の気のせいだと思うが、こちらの心情を知ったら誰も文句は言わないだろうし、本来ゆっくりする食堂なんだからいいだろ、一人で心の中で言い訳をしながら待ち合わせの十数分前に食堂を後にした。

人がいる救命センター前を避け、センター近くの隠れたところの待合室、いつもここは誰もいないし冷房がかなり効いているので一人で横になってみた。
掲示板に張られている独協医大の医療5か条なる箇条書きが書かれたポスターが目に入った。

人間はすべて平等な医療を受ける権利がある。患者は自らの意思と尊厳を尊重することができる。
そう書いてあった。

そうだ。今以上に俺たちが命の尊厳を問われている時はない、どんな人間でも尊厳を侵されることはないのだ。とくに命の尊厳は最も崇高で、地位や名誉、その他あらゆる差別からは排他的に扱われなければならない。
それが将の場合であっても。

誰でも言葉や表情で情報を発すれば相手に伝えることができる。
究極な状況下ではそんな単純なことが大きい意味を持ってくる。
俺の弟がそんな極普通のことができない状況にいるなんて、
あんまりだ。
可哀そうすぎる。

普通に生活できるということがこんなにも貴重なことだとは思わなかった。
将はどうしたいんだ。今、夢の中でも何かを思い、微かでも意志を持っているのか、それを判ってやりたい。
何もしてやれなかった。
今もそして今までも。
「自分に万が一のことがあったら」
こんな話はよくする話題だ。
大事な兄弟なのに5年も会わず、現実に直面しなければ、思いもよらないなんて。

将、お前が死んだら、意志を伝えられない状態になったら俺は何をしたらいい。
死んだ後に兄貴面してお前の墓前で自慢話や金をかけた添え物、を持っていくこと
を望んでいるのか。
俺がギターを弾いてそこそこ上手いことも知らないだろう、その音色さえ聞いたことも
ないだろう、空き部屋にお前が昔弾いていたギターがあったろ、それを見たとき将も
ギターを弾いていたのかと。
初めて知ったよ。
これほどまでに近い人間同士なのになぜコミュニケーションではなく事後判明で相手を知るんだ。

話そう、起きたら。
俺のこと全て話してやる。
そして誇らしい兄だと思わせてやる。
そのために眠っているお前に飲みに行くぞと約束したんだから。
お前のことも話せよ。
お前のことを俺が知る。
浅い人生でも深い人生でもいい。
そして今後、どうありたいかという意志を示してくれ。
現時点で決して知ることの出来無い、将の心の詮索と俺の思いを胸の中で叫び続けた。

実際の時間より10分ほど早い携帯の時計が15時13分を示していた。
すぐ近くの救命センターへ向かう。両親はすでに二人そろって座っていた。
俺もその横で待った。親父がインターホンを押し、面会の依頼を告げるとまた待たされた、時間はどれくらいだろう。
しばらくすると、知らない中年の男性が目を大きく開けて何かを探すような表情で
現れたと思ったら、両親が「あー」と二人とも声を上げ、立ち上がった。
将の関係者であることが判ったので俺もすぐ立ち上がり、手を後ろに組み一礼した。
勤めている会社の社長ということで来てくれたらしい。
年下や部下を思いやるというの素晴らしいことだ。
顔から察するに人望が厚そうな、建築とかマンパワーを使うような仕事の方だろう。
社長と両親が話しを始める間もなく大きな擦りガラスの扉が開き、体格の良い看護婦さんが出てきた。

俺は彼女の輝く左頬と、あっけらかんとした顔。その口から発せられる言葉、そしてこの白を基調とした広い通路を背景にした日光が降り注ぐ光景をまぶたに焼き付けることになる。
「佐藤将さんのご家族ぅ」といかにも体格の良い人の通った声でこちらに寄ってきた。
俺はそのとき告げられる事実を夢にも思わなかったので、一瞬皆よりは彼女に気づくのが遅れたようだ。
振り返り彼女を見て、その発している会話が最初聞き取れなかった。
「・・・してもうできますよ。」
ん?文法的には末尾が”可能”の表現だ。聞き取れない。
そう思ったのは時間でいうと0.1秒くらいだろうか、すぐに
「え?」
と聞き返した。
「・・・をとってもうお話できますよ。」
この時点でも、話の内容がその状態と意味とが結び付けられることなく、俺の元来慎重な脳はもう一度確かめろ、と強い支持を俺の末梢神経へと送った。
「え、話できるんですか?」
「はい。」
「普通に話できるんですか?」
何度も確かめてみるんだ、俺たちの大事な決定的情報に間違いがあってはならない。
そして彼女が言っていることが信じられないという俺の形相は人生最大の本気顔になっていたであろうと断言できる。

最後に彼女が「はい。」と言った瞬間、
俺の両腕の上腕二等筋と両頬にサッと鳥肌が立った。
そして俺の意志とはまったく関係なく「ハァ」というため息、いや普通のため息では
ない、その半拍くらいの短いものだったろう。
それらはまさに大地震が来る前の初期微動のような予兆の現れにしか過ぎなかった。
次の瞬間、俺の胸あたりから首の中を圧倒的な圧力で駆け上がる何かを感じてその勢いが顔面にまで達したのが判った。
津波を見たことはないが、表現するには一番適当ではないだろうか。
実はこの一連の現象が起こる一秒くらい前に俺は歩き出していた。

看護婦さんの言ったことを理解したが、想像したものではなかったからだ。
何を想像していたというわけでもないが、その結果を受け入れるにはあまりにも態勢が整っていなかったからだろうか、というよりは何かとんでもないことが自分の体に起こりそうな気を直感したからだ。
おかしなもんだ、歩き出し、すぐに小走りになって向かったその方向は、将のいる救命センターの扉の方ではなく、180度反対の方角であった。
その時、社長さんを含め、両親がまともな精神状態であったら、俺がとり始めた行動を見て「この情報をいち早く誰かに伝えにどこかへ行ったのだろう」と思ったのではないだろうか。

実際には違った。
溜め込んだ強大な感情エネルギーを、張り詰めていた糸が切れたように、
先ほどの津波が大きく崩れて整然と立っていた俺の中の不安や絶望をぶち壊していくだけでなく、必要最低限の紳士的威厳や品格を司る機関をも含み、何もかもを巻き込んで轟音を立てながら、大爆発した。

歩き出しながらまもなく、抑えきれない涙が溢れてきた、まさに激流のごとく。自分が移動している軌跡にポタポタと涙を垂らしながら、俺は顔面を中央に絞るような顔をして手で覆ったのはそんな無様な顔を周りに知られないようにとしたのではない、反射的にしただけだ、無論そんな理性的な一連の行動ができる状態ではなかった。

現に俺は立っていられなくなり、気管を圧迫され押し上げられるように呼吸のリズムが激しく狂い出したのを感じ、すぐには誰も来ないであろうエレベータ前に崩れ去り、大声をあげて、泣いた。
「よかった」
頭の中ではそう呟いていた。
が、実態はそれとは裏腹に、女性が上げる悲鳴に似た大声の嗚咽を響かせていた。自分でも驚いた、驚いたが理性が効かない。抑え切れない感情をおそらく脳はもう止める必要はないと判断しているのだろう。

ずっと続いていた。誰かが、横でエレベータを待ち乗り込んでいった。その間も俺は人目を憚らずに大泣きした。まさに号泣だ、その人はまさか嬉し泣きしているとは思わなかっただろう。救命センターのすぐ近くでこれだけ甲高い叫び声を上げている人間を人は皆、近親者の“死”に直面した究極の悲しみにくれる人間の慟哭とみなすだろう。
そこから想像できるのは胸を張り裂ける苦しみ、阿鼻叫喚地獄に落とされた究極の不幸に違いない。

でもそれは違う。
俺はそれだけ激情を揺さぶられ、魂を震わせる経験をしているのだ、でもまさか自分のこんな有り得ない一面、いや本性を見ることになろうとは、想像もつかなかった。
良く知る人間の間ではシュールな自分で通っていると自嘲できるが、彼らが見たとしても、演じ、装ったりでは絶対に再現できないと認めるだろう。
そしてこの異常な状況をしばらく止めることができなかったが、まだ本人を見て確かめねばならない、そんな当たり前のことを忘れてしまっていたくらい俺は“ヤバかった”

はっと気づき、もし看護婦さんの勘違いで別の人の情報を与えられていたら大変だ。
そんなことが頭を過ぎり、今までの重荷を取り除くためとはいえ、いつまでも泣いていても仕方がない。
すると突然、呼吸が普通の状態に戻りだしたので、深呼吸を2,3してみると今までの発作が嘘のようにいきなり収まった。全く普通の状態。涙は出ていたが、手で拭い早速救命センター前に戻った。頬が涙で濡れていたので目を押さえ扉の前へ行くと、家族ではない社長さんが入れずに椅子に座った状態で「行ってあげな」と一言掛けてくれた。俺はそれにまともに応えることもせずにインターホンを押したが、すぐに反応しないことを思い出し、自分で空けられる手順でボタンを2箇所叩きつけるように強く押した。

扉が開き中へ入る。以前将がいた場所には見当たらなかった。聞くしかない、目が赤くなって涙の跡も残っていただろうが、尋ねた担当医の先生はほとんど気にせず、看護婦に俺を案内するように言って、俺は彼女に連いていった。
見つけるのに何か少し戸惑っているようだったが、間もなく会えることは確信していたのでその時を大人しく待った。
“佐藤将 様”の文字、
これだ。
看護婦と2,3確認して病室に入っていった。
そこには、たくさんのセンサー、しかし以前口の中に入れていた大きな管はなく酸素吸入マスクを取り付けた将本人、目が微かにだが開いている。それを両サイドから両親が付き添って話しをしている。
俺はすぐ近くに寄って行き、ベッド横の柵に両手を掴んで身を乗り出し、「おい、大丈夫か!」と聞いた。
将はその瞳を俺の方へ向け、頷いた。
「分かるか、豪だよ!」
「分かるよ」
苦しそうな声だが、会話が出来た。
俺はとにかく確かめたかったのだろう。
その方法も分からなかったので、
「今までのこと分かるか?」と問いかける。
将が頷く。
この質問で大まかに大丈夫そうだと判断した俺は、柵を握り締め、下を向いて「よかったー」と小声で吐き出していた。
人口呼吸器の大きな管が入っていたため、今は喉が苦しいと本人が言っていた。
親父が色々将に聞いていたが、苦しいんだから話しかけるなと諭した。
それでも親父は話さなくていいからと告げて自分の話しを続けていた。
俺は柵を握ったまま、下へへたり込んだ。
本当に安堵したからだ。
「本当によかった。」
何度も口にしてしまう。
眉間に皺を寄せ、大きく開いた口をしばらくは塞げずに、奇跡を実感しようとしたが、信じられない。
奇跡が自分に起こったんだという喜びよりも驚きが大きい。

そして俺もやはり、いてもたってもいられずに主要な質問を始めた。
苦しそうに応えていたが、全く問題ない会話だ。
だが、この姿はちょっと可哀想、自然に俺は優しい顔になっていった。
口調も軽快にフランクにと心がけるというよりは、いつも人に好印象を与えようとする話し方、それから楽しむという気持ちで。
俺が苦しみぬいた、叶わぬ願いと思っていたこの光景が、現実に存在している。
弟と話すという何でもない時間を噛み締めた。
窓から差す光が俺たち家族を優しく照らしている。

すぐ向かいのベッドには大怪我をしたのであろう、手足を吊り上げられて全身包帯ぐるぐる巻きでようやく顔が覗けている患者が面会相手と話しをしている。
俺は歓喜を上げたり、異様にテンションを上げたりという振る舞いはしなかった。会話する声も普段よりも静かなものにしていた。
当然周りに対する配慮と、ここは病院であるという礼を弁えたものであるが、それ以上に、実はまだつい少し前までの大きな、大きな不安に覚悟を決め張り詰めた緊張感の中にいた自分とを完全には切り替えることができていなかった。
嬉しい、感動した。というより、
終わったんだ。この24時間全てが杞憂だったのかという複雑な思いだ。

幸運には何度となく恵まれていなかった俺に、奇跡が訪れたなんて、どう表現したらよいか分からないが何か疑いのような気持ちすら片隅にあったかもしれないくらい首をかしげる気持ちでもあった。

親父が誰かへ報告するためその場を離れたので、親父と代わる形で、俺はベッドの反対側へ移り、将の顔を見ながら心電図等のモニターやらを見回した。最初これらの機器を見たときは一つ一つ、将の体の何の状態を表しているのかを知りたかったが今となってはどういう意味を持っているのかはもはやどうでも良いことだった。
生きて、はっきりと意識を持った、自分には大変なことが起こったのかという気持ちを判かろうとしている遠い目と無表情からなる将の上半身が半起きの体全体を、俺は自身の視界にしっかりと収めていた。

俺が何を語りかけていたときだろうか、俺の目を見つめ将の口が酸素マスク越しから何かを訴えている。
マスクの為、こもった声で一部が聞きずらかったが、その言葉は
「ゴウクン、アリガトウ、アリガトウ」
そして、一部包帯で巻かれた指とセンサーのコードが巻きついている手を俺の方へ上げてきた。
それでも自分の手を上げきることができそうにない、か弱い姿だったが、自らの意思で俺の気持ちに応えようとしている。

その目には涙が浮かんでいた、感謝感激というよりもなぜか悲しい表情だ。
俺は驚いた。今まで意識のない将の感情を真っ暗な海の底に深く深く潜り込みながら、探しあぐね詮索していたが、助かった今となり俺たち家族に、将が心の底から感謝し感動しているという今の現実である唯一の“答え”を目の当たりにして、やはりとんでもない経験をしていたのだと実感した。
すぐに将の手を握りしめ、そして将に対して返す言葉を発する前に、俺の顔面はまた、強く歪められなければならなかった。
感動し、すぐにあふれ出る涙を抑えきれなくなった。
涙を流しているだけではない、俺の体全体が感動を猛烈に受けている。

弟の前でなど、声を上げて泣くことなんか。
そんな気持ちは微塵もなかった。
助かったのに、何かとても悲しいような、それと今までの自分に対しても、振り返ってみれば哀れな経験を、よく耐えたなと。
動悸が激しく、呼吸のズレも制御できなくなったが、この極限の感情とともに自分の本当の気持ちを言わなければならない。

「お前に、兄として何もしてやれなかったと思った。」
知らせを聞いたときから今の今まで本当にそう思っていた。
願いでも、祈りでも、許しを請うでもない。
数奇な運命に感謝しながら、この瞬間に俺の本心を伝えようと思った。
それが俺に与えられた兄弟という絶対的な関係である者のせめてもの義務ではないか。
呼吸が苦しくて、まともに一言で通して発することが出来なかったが、伝えたい一心で、感極まっての情けない大きな声でそう言い切った。

これだけ感動することが俺にはあるだろうかというくらい感動した。
それもそうだ、社会人でもあり大の大人が、体はおかしくなり体面を保つという理性も失って豹変してしまうくらい泣じゃくるのだから。

そのとき将に言った言葉で「いい経験させてもらったよ」というセリフがあったが、それは全く的を得ていると思う。
俺は今、退院した将を近くにいることを確認し社会活動も再開させている、
会う人々全て、それは交差点ですれ違うような全く関係のない人たちに対してすら自然と感じてしまう。

生きている、ただそれだけが有難いことを分かっていますかと。
俺はそれを実感することが出来た。
あなた方はどうだろう。
今この瞬間、あなたの命、または家族の命が遠いところへ行ってしまったらどうだろうか。
やり残してないことはないはずだと思う。

将の病室から出て病院の周りの散策用の小道を歩いた。
緑が気持ちいい。
そうか、この空き地はヘリポートだったのか。
どこへ向かうこともなく、一人歩いた。
病院の正面玄関の外のベンチに仰向けに横たわり空を見上げた。
俺の視界は曇り空が半分と残りの半分は、大きくて力強い濃い緑を炎々と見せ付ける大木たちが占めていた。
木の葉が風に靡いて立てる摩擦音と、セミの鳴き声が止むことなく鳴り響き、何匹も羽ばたいている虫を追っかけ、それを捕まえようとカラスが飛び回っている空中戦を眺めていた。とどまることなく活動している生態系が生き生きと繰り広げられている。

そばにいた箒で掃除している警備員の手をとり「たった今、弟が助かったんです」と言ってやりたい。
どんな豊かさもこの経験よりも価値のあることはない。金持ちがその物質的所有を俺に自慢したとしても、鼻で笑ってしまいそうだ。
ある意味、どんな偉大な人にも対等に渡り合えそうだし、何も怖くない。それくらいの優越を手に入れたような気分に、なっていた。
三男の大に報告するときの、携帯に掛けている瞬間の嬉しさは説明するまでもない。

俺は自分の涙腺が弱いんだと知った。その後も何度も思い出しては涙をこらえていたが、当時の気持ちを鮮明に覚えているため、こらえきれずに深い男泣きをしてしまったりした。
低酸素脳症は後で調べて愕然とした。
溺死になる一歩前の症状で、助かったとしても脳へのダメージが酷く、植物状態や重い後遺症が残るという重大な症状であった。
その事実を知ったとき、この症状で溺水により我が子が障害者になってしまい闘病に奮闘する家族の生々しい書き込みを見て、身の毛がよだち正直とても怖かった。
俺もこのような境遇になる可能性が十分にあって、自分自身の未来としてはっきりと想像し、覚悟すらしていた現実が現に存在していたから全く他人事とは思えなかった。相手を思いやるというのは、相手に対しての理解から始まると思うが、この体験をしたことによって俺には少しでも感じ取れたのかもしれない。

事実は小説より奇なりというが、一生のうちでこのような千載一遇の体験をし、このような尊い気持ちを得ることはもうないかもしれない。わずか24時間の出来事であったが、起きてくれた奇跡とそれを与えてくれた将に感謝したいと思う。

2008年8月3日