2004年夏、24歳、自分の夢に挑戦したいという勝手な理由を認めてもらい円満な退社とはいえ2年半という短い証券会社の会社員生活に終わりを告げることになり、今までお世話になった皆さんに挨拶をして回ったが、最後まで社内で目立つような成果は上げられないままでの去就に、いつか必ずこのイメージを晴らすことができるような人間になってみせるという意地も捨ててはいなかった。

親にも当然、今後の進路を打ち明けたが、進路とはいえワーキングホリデービザでオーストラリアに行くというだけで現地では何の当てもなく、何をするという目的も予め決めずに飛び込んで後は野となれ山となれという冒険的な生活を一度してみたいと考えていただけなので、詳しい計画を説明することもなしにその出発時期までに都内の会社の寮を引き払い埼玉の実家に戻ることを伝えただけだった。

九月に退社をしたがビザが未だ取得できていなかったのと、オーストラリアは冬場を迎えていることもあり数ヶ月は色々な準備や、有給の消化期間も含めてゆっくりと気ままに過ごすことにした。失業手当をもらえるかどうかわからなかったが、手続きをしにハローワークへ初めていった。そこには出口にあふれるほど人がいて混雑しており、これが全て失業者なのかと驚いたが自分も結局退社したら証券会社というキャリアも関係なく社会とは接点のないただの失業者であることが思い知らされた。24歳で自らの意思で退社をし、留学という目的があったからまだ自分を納得させられたが、いい大人になってまでもここへは来たくないと正直思った。

その充電とも準備ともとれるのか、実態はフリータイムでありいい加減な時間を設けてはとにかく自由に過ごした。友達やら彼女と毎晩遊んでいて、ひと月に一度国内や海外旅行へ出かけたりした。自分にはこれも世界を知るうえで重要な今しか出来ない経験だと言い聞かせてやりたい放題していた。

失業保険ももらい終わり、留学ビザも取得してそろそろ本気で留学へ出発しようと思っていたある日、以前努めていたひまわり証券で先に退職していた先輩からホノルルマラソンに誘われた。彼も海外旅行好きで私に海外生活の素晴らしさを如実に教えてくれ、オーストラリアを勧めてくれた張本人であったのだが、さすがに12月のホノルルマラソンの後まで留学を延期するにはずいぶん時間が空いてしまうと思ったのだが強引に勧められそのまま一緒にハワイへ行くことに賛同した。

ハワイはアメリカなのでUSドルが必要になる。そこで私は勤めていたひまわり証券で修得した、外貨を市場より格安に調達するという方法を試しに実行してみることにした。この方法は一般的にはほとんど知られておらず私がいた部署でも主である投機取引とは別のあくまで付随サービスであったため利用している顧客や業務として扱ったことのある社員はほとんどいなかった。たまたま私が内勤業務で職務上知っていたに過ぎないサービスであったのだが実際に現金として海外旅行などで使用できるかどうかは疑わしかった。

もしこの方法が可能ならば銀行などで両替するレートよりもかなり良いレートで外貨を調達することができる画期的な手法であるので、会社に居た当時は凄いサービスなんじゃないだろうかと思っていたのだがようやくこの機会に自分で口座を開設し、必要な銀行口座もいくつか準備して多くのサイトや本などを参考に実践してみた。内心、どこかで行き詰ると予測していた。なぜならばこの調達法が実現したら本当に画期的なことであり、銀行で両替するレートなど馬鹿げたものになるからだ。

確かに制限は多くあったが結果的にはこの方法で外貨をトラベラーズチェックにして国内の銀行から引き出すことが出来たのだった。これは自分でも驚いた。しかも2004年の年末当時はちょうどドル円が100円に迫る円高であり、僅かにつけた102円台でドルを調達することが出来た。銀行のキャッシュレートは市場レートよりも常に3円以上上乗せされるので102円でキャッシュを調達可能な日がくるまではそれから3年後の円高になるのを待たなければならず、タイミング良く奇跡的に底値の安いレートで外貨を利用できることになり得をした感覚があったのだが、それよりも何かとてつもなく大きなビジネスチャンスを見つけた気がした。

省みるとこの経験が起業のきっかけになる大きな一歩であったと思う。当時はまさか自分が起業をするなどとは思いもかけていなかったが、そのころから漠然と外貨両替の市場はもしかしたらかなり手付かずで無競争である金融機関の独占市場なのではないだろうかという疑問を抱くようになった。そんなことは頭の片隅においてハワイへ飛び立ち、手にしたトラべらーズチェックも現地で問題なく使用できた。いままで訪れたアジアの喧騒とした雰囲気ではなくいかにもリゾート地であり、物価も高く金持ちや日本人なども多い観光地であったのが自分の性にはあまりあわずやはり最初の海外旅行のような感動的な感覚に陥ることは無かった。

それでもバックパッカーが泊まるドーミトリーで知り合ったアメリカ人に懇願し彼と二人で行った地下のダンスクラブは良かった。怪しく何ともエキゾチックなあの雰囲気がたまらなく好きで、日本人は誰もおらずまさにアメリカの地場のダンスクラブだった。酔ってハイになったピアスだらけのパンキッシュな若い女の子にステージ上で腹をべろべろ舐められたり、夫婦で来ていた奥さんにダンスしましょうと誘われ、旦那がいるすぐそばで二人で踊った。不思議に思い「なぜ、旦那さんがいるのに僕と踊るのですか」という質問をしたら、「楽しいんだからそんなことは関係ないわ、ここは自由の国アメリカなんだから」と言っていた。アメリカナイズドな考え方を間近に受けて関心したものだった。冒険心を持たなければハワイのお決まりの側面しか堪能することはできなかったであろう。きっと見ず知らずの彼らもそこにいた小さいアジア人を珍しくも興味深く思っていたに違いない。

燦々と輝くビーチやホノルルマラソンの完走の醍醐味を味わうことができたが、やはり外国の雰囲気はとてもテンションが上がる。ドーミトリータイプのホテルに泊まり、我々の集団と同じ部屋に居たのは各地で仕事をしながら旅をしている屈強だがボヘミアンのような欧米の若者連中だった。こういうのをヒッピーというのだろうか。彼らの話す英語もスラングや訛りが多くてよく分からなかったが、スキンシップや顔の表情だけでも仲良く話しをしてくれた。私は外国人と話すのが好きなのでここぞとばかりによく話しかけていた。とても同年代と思えぬ体つきをしており一見して強面だったが旅人同士は対等な立場の仲間であり打ち解けるのが常である。

しかし先輩の1人は全く英語ができず会話ができなかったので、彼らの吸っているタバコをマリファナだと思い込み、自分の荷物に入れられないように厳重にワイヤー錠を捲きつけていた。いらぬ心配だとは思ったが人間は異なる立場の人間をすぐには受け入れないという防衛意識も本能的に持っているものであるから、逆にこういったシチュエーションで気兼ねなく好奇心を持って立場の異なった人間と接する度胸がついたのはかつて行っていた飛込み営業とこのような海外旅行での経験が役に立っていると思う。そして何よりもこのハワイ旅行で外貨の両替を格安でできるということを証明できたことが大変大きな収穫になった。とても革新的な出来事に成功した気分になり、これがビックビジネスになるのではないかと淡くも期待を持つきっかけになった。

ホノルルマラソンを含めて私が会社を辞めてからの半年間で行った海外旅行は韓国、台湾、シンガポール、マレーシア、インドネシア・・・6カ国に上った。航空券が安い時期であったが、いづれこんなことは出来なくなる身分だと思い、今しかいけない若気の至りで遊んでいた。それとともに外貨両替の知識をもってして日本で一山当てたいと思うようになっていった。最後のころにはオーストラリアへ留学することはもうどうでもよくなっていた。

予定通りワーキングホリデーへ渡航していたらどうだったであろうか、若さにありがちな無計画で無謀な人生設計ではあったが2004年からその後の日本以外の経済成長は渡航を計画していたオーストラリアを含め各国力強い伸びを示している。国の成長と個人の成長の相関はそこで生まれ育ち職につき、事業を行ったりと国民として経済活動をしていれば比例するであろう。ワーキングホリデーは読んで字のごとく休暇という意味合いがあり、現地で単純な労働は認められているもののその実態は長期旅行の延長で遊んでいるだけという印象を持たれることも多い。海外で活躍したいという夢はあったが全く具体的な計画もなく、伝手もなく、英語も拙いレベルの若者が異国の地へ飛び込んで徒手空拳で成功する確率は相当なものであったのは言うまでもない。

それでも当時はバックパックを背負いシドニー空港のゲートを出る情景というのを毎日のように心待ちにし、第二の人生をオーストラリアで切り開いていくことを信じて疑わなかった。自分の名前である豪という漢字はオーストラリアの国名を意味していることから彼の地に因果も感じていた。

昔から意志は固い方で、周りにもワーキングホリデーでの海外留学を宣言していたにも関わらず結果的には有言実行しなかったのはそれほどまでにも固まっていた意志を覆すほどに、最終的な人生の目標や目指すべきものは何かと自問して大きなチャンスをつかみ取れる期待値が高いのはどちらだろうかと真剣に悩んだ結果だった。若い時分に誰もが経験するであろう揺れ動く心の葛藤は、この留学という名目の移住か、または国内に留まり自分が経験した外国為替の事業化かの人生の選択であった。