紆余曲折を経て格安レートでの外貨両替という起業が実現したものの、信用も実績もないためかホームページで営業開始しても集客が思うようにいかず、暗中模索の中まるで迷宮をさ迷っているかのような状態であった。

ただ苦しいばかりかというとそうではなく思いがけない良い出来事もあった。同じシェアオフィスでフリーのライターさんに挨拶をして自分のビジネスを紹介し、プレスリリースのことなどを相談していたら、「佐藤さんのビジネスモデルを編集部に打診してみますよ。」といってくれたのだ。彼女は当時日経MJに記事を提供していたライターさんだったので、私はダメもとでお願いしてほとんど期待せずに忘れそうになっていたころ、デスクの許可が取れたので取材させてくださいと連絡が来たのだ。まさかとは思ったがそれが何を意味しているのかよく考えれば、自分が新聞に載るというとてつもない凄いことだと思い、沸々と興奮したことを思い出す。

しかも一面に顔写真付きで自分の会社が紹介されるのである。和やかに取材を終え、販売当日の日を指折り待った。自分の人生こういった大きな期待の際はいつも直前になって突発的かつ不意にだめになることが多いので、自分自身の目で確認するまでは浮かれてはいけないと常に心に戒めていた。ひまわり証券で営業していた当時、私が飛び込んで見込み客にしていたある資産家を、課長そして支店長までが足しげく通い熱心に商談をして納得していただき申込書まで入った大口の案件があった。周りの同僚から「おめでとう」と口々に言われ、同期の彼女からも驚きと尊敬の念を込めてお祝いムードになったのだが、その後まさかの入金がなくいつしか立ち消えになったという悪夢のような経験があったからだ。その後まともな契約が取れずに営業マンとしては没落していってしまった。

しかし幸いにも新聞販売当日を迎えるに至り、早朝にいの一番で母親が購入して「載っているよ」と叫び起こされた。父親もキオスクあたりで購入したらしく喜んでいた。少なからずの親孝行にもなったのだろう。そしてその日に私に会いたいという電話が数件入ったのだった。実際に来社された年配の方は税理士事務所を経営されていて、外国為替のことについて知りたいことがあるとのことで、色々と質問され丁寧に私の知識の範囲内でお答えした。相手の方は私が若かったことにかなり驚いていたが、「写真で見たあなたの顔はとても福顔でしたので将来成功しますよ。」と言われた。実際に営業や売り上げに結びつくことは無かったが、その後はベンチャーキャピタルの営業マンが4~5人来た。いわゆる投資先を探している大手の会社であったのだが、現在自分の給料も出せないどころか赤字の会社に投資なんて大それたことはお話にもならないだろうと、相手にしてみれば気の毒で時間の無駄ではないかと思っていたが、案の定ほとんどの会社の営業マンは一度きりでその後連絡は無くなった。だが、とある一社、ジャフコの方だけは親身になって助言や提案をしていただき、決定権のある部長を同行して来てくれたこともあった。私に「社長、小売は難しいけれど、天下取ったら大きいですよ。」と言っていたのが印象的だった。その後、転職をするといって付き合いはなくなったが、最後の連絡もくれたので恩を感じ有難く思った。

しかし、そのころに各社の営業マンに投資を本格的に検討してもらうほどの自信と情熱があったなら、ベンチャーキャピタルという会社との付き合いもあったかもしれない。現状が苦しくとも経営者であればはるか遠いかなたのゴールを見据えその夢をさも明日のことかのようにリアルに語れなければいけなかった。実際には自分の窮状を隠して、何かしらプラスになるようなことが引き出せればという考えでしかなかった。大会社が投資をするなんてあり得ない、ましてやこの外貨両替という事業で食えるようになれるだけでも御の字と思っていた自分の過去は、彼らにとっては大変失礼にあたったかもしれない。

「素晴らしい業績は素晴らしい技術や才能、発明などのビジネスモデルから来るものではない。それらを導くものは全て根底にある燃え滾る情熱とそれを実行し、数々の失敗の中から産まれる賜物である」と稲盛和夫氏が言っているが、どんな環境においても変わらぬ気持ちの強さを持ち続けることなど頭の隅に追いやられていた。そしてそれは冷ややかな世間が理解してくれないがために、あまりにも過酷な日々を自分は送っているという被害者意識のようなものへと変わっていくようであった。

新聞掲載の件はきっと会社の信用性においてはプラスに働いたに違いなかったのだが、絶対的な受注件数が増えない。厳密には極僅かには増えていたのだろうが、安定せずまた全く先の見通しが出来るものではなかった。つまり具体的には起業してから半年以上が経っていたにもかかわらず月間で10万円程度の粗利を稼げるようになったが、費用が15万円以上かかるという状況で、どんな天変地異が起こって売り上げが3倍になったところで変動費も増えるだろうから、結局よく見積もっても学生のアルバイト程度の金額しか手にすることが出来ない。しかもこの時の10万円は偶然まぐれで1人の顧客が大きい金額をしてくれたというようなケースが含まれていたので、その次の月にはまた10万円を下回ってしまうというような体であった。

日に日にインターネットだけでは限界なのではないだろうかという意識が芽生え始めた。しかし店を出して営業をするなどということは現実味を帯びていない、なぜならそんなことをするとなると今の費用とは桁違いの莫大な金額がかかることになる。そんな金はどこにも無いし1,000ドルつまり10万円ほどの取引をしたって1,000円程度の粗利では採算が取れない。たとえ出店などしてみても結果は全く自信の持てるものではなかった。それに自分の器や信用力で自己資産の何十倍もの資金をどこから引き出してくるというのか。その難しい答えを求めるまでもなく、そもそもこの業態は無店舗でなければやって行けないのにこのまま行くといずれ破産ということは目に見えていた。

根本的に見直さなければいけない。
毎日焦る思いが募るが、顧客は来ない。負のスパイラルに陥り、朝一に出社していたスケジュールもいつからか夕方からになっていき、終いには用が無い日には電車賃がもったいないので出社しないという姿勢になっていった。腐っていたわけではない、腐ってもしょうがないことは分かっていたが、どうすればいいのか分からなかった。どんどんと減っていく資金を背景に、理屈で考えて可能性があることにしか行動できなくなっていた。あらゆるインターネットマーケティングやアナログの集客方法などを模索したが、すぐに結果に結びつくものは無かった。だからといって継続して根気よく検討するという資金的余裕もなかったので全て一口だけかじって捨てるというような状態で余計な金だけが出ていってしまったことにトラウマのようなものが根付いて、とにかく金は使わないように何かウルトラCの特効薬はないだろうかと考えるだけで足が止まってしまった。何もしないので顧客も来るはずもなく、まさに苦悩のあり地獄であった。

背に腹は代えられない。究極のゲリラ戦法ではあるが予ねてから思いついていたが現実的には実現不可能と思われていた案を本気で検討することにした。