改めましてこんにちわ!
インターバンクの佐藤です。
この度は数ある両替商の中から弊社の
外貨両替サービスをご利用いただき
誠にありがとうございます。

せっかくのご縁ですので
改めて自己紹介をさせていただきます。

インターバンク創業者の佐藤豪です。
1980年横浜生まれの埼玉育ちです。
生い立ちをお話しします。

実家は埼玉県杉戸町という東武動物公園駅
から歩いて20分くらいの田舎にあります、
出身地を言ってもわかる人が少ないので
いつも春日部の隣と言っています。

必ず「クレヨンしんちゃんね」
となるので春日部栄誉市民のシンちゃんは
偉大だと思います。

両親は羽田空港で共に働いていて出会い、
長男として私が生まれました。
ですから母方の実家は羽田にあります。
弟が二人いて5人家族です。

父は日本エアシステムという
航空会社を30年間勤め上げ
JALに吸収合併される前の年に
定年退職をし、その後に複数の
航空会社へヘッドハンティングされ

点々とする単身赴任を経てから
70歳前に引退し、現在は資格を
取ってフリーランスの神主
になって余生を過ごしています。

母親は結婚前に父と同じ会社の空港地上職員で
グランドスタッフ、通称GSとして働いていました。
結婚後はずっと主婦です。

因みに母方のおじいちゃんも空港職員で、
現役の頃にマッカーサーと肩がぶつかった
ことがあるという逸話を持っています。

父親は航空会社ではパイロットの教官を
していましたので、このような話をすると
親が「航空会社」勤務なんて凄いねと言われます。

実は1990年代後半のバブル絶頂期に
私たち家族は横浜の近所に引越し予定だった
のですが、手付金も入れた仮契約の物件を
投機目的の不動産屋に反故にされました。

手付金は倍になって返ってきたそうですが、
高騰した不動産市況に近場は手が出ず、
泣く泣く空いている今の埼玉の
縁もゆかりもない土地に行き着きました。

バブル当時は航空会社もものすごく儲かって
いたようで父の給与もおそらく100万円以上は
あったかと思います。

ですから田舎でしたが注文住宅で
4,500万円の35年フルローン
の当時は珍しい3階建ての家を建て、
父の趣味で庭には数本の白樺の木を植えました。

小学生低学年の私は日本のバブル経済という
現状など知る由もなくその後に起きる
バブル崩壊がその後私たちサラリーマン家庭に
もたらしたものは苦しい経済的転落でした。

私たちサラリーマン家族は
バブル崩壊の影響をモロに受けました。

まずは良かったころの話をします。
1990年、私が小学生の頃には
自宅を建てたと同時に

300万円の新車のパジェロを購入、
自作改造をして各地にキャンプしに
行ったり家族5人で車中泊したり、

父親の航空会社の社員特典で
飛行機代が家族全員無料になるため
日本各地、陸路空路を駆使して
家族旅行をしていました。

地元の東武動物公園にも
年パスで通っていました。

究極は、所沢の航空ショーへ
連れて行ってもらった時に
セスナ即売会で「セスナ買おうか」と
父が言っていたのを覚えています。

日本のバブル経済同様にうちの
父親もワイルドでした。

社会人になり親世代になって
自分の家族が幸せにあふれる
経験をしていた思い出はとても
尊いものだと実感しています。

しかし、その後バブルが弾けました。
航空産業もリストラ体制になり
父の給与も右肩下がりに。

羽田空港の父の勤務先は
モノレールの「整備場」駅。
自宅の東武動物公園駅から毎日
片道2時間以上かけて私たち家族を養っていました。

同僚の外国人社員にはクレイジーだと
言われていたらしいです。
その通勤を20年以上続けたのは立派だと思います。

当時はあまりにも体力的にきついため
父は会社近くにアパートを借りようとしていたと
最近になって真情を吐露していました。

子供3人と専業主婦の母親を
食べさせていく。
思えば当時の私は両親に対して

感謝を口にしたり何かしらの表現を
するようなことはせず、それが親の
義務であるかの如く
当たり前のように振る舞っていました。

高校も学費の高い私立の学校へ通い、
家計を圧迫していたことでしょう。

年収1,000万円未満の世帯収入と
推測された当時は、
手取り金額から住宅ローン

生活費や子供3人の教育費など
差し引いたら残りはわずかだったはずです。

そんな家庭事情には一切関心も持たずに
私は悪友とつるみ学校で禁止されている
バイクの免許を取ったり、不良に憧れる価値観が
作られていきました。

私の素行をめぐって両親が不仲に
なっていき、家族全員でイベントを
することもほとんどなくなりました。

縁もゆかりもない家族が平成バブルの末、
偶然行き着いた土地で1サラリーマン
家庭で私は育ちました。